第82話 「ビッグショート」
午後の取引開始の鐘が鳴る。
取引所の空気は、朝とはまるで別のものだった。小麦の板には、買い注文がひとつもない。
「……値が、つかない……?」
誰かがつぶやく。
沈黙ののち、焦りが広がった。
「おい、誰も買わねぇのか!?」
「約定が止まってるぞ!」
やがて、ひとつの数字が表示された。
――7.54ディム。
それが、午後最初に成立した価格だった。だが、それが合図だったかのように、次の瞬間から値が落ち始める。
――7.12ディム。
――6.89ディム。
――6.40ディム。
売り注文が次々とトークンコアへ吸い込まれていく。
「止まらない! もう誰も買い支えてない!」
「損切りが連鎖してる!」
「……始まったな」
俺は、静かにアルカナプレートを操作した。
冷たい数字が並ぶ。
ティタニアが俺の隣で眉をひそめる。
「次は、どうする気?」
「魔力石を売る」
「午前中に売っていたのはこのためだったの?」
「ああ。フレイジアのニュースはまだ終わっちゃいない。空の魔力石がフレイジアで再生できると市場が認識すれば、魔力石の価値も下がる」
ティタニアは一瞬、口をあけたまま絶句した。
「……あなた、ほんとに悪魔みたいね」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
「ティタニアもそろそろ上で待機しておいてくれ」
「小麦が片付いたら魔力石も全力で行く」
「わかったわよ」
そう言って、ティタニアが浮上していく。
<アイラ、小麦の状況を教えてくれ>
<下げが継続しています。現在5.6ディムです>
<もっとひきつけろ。俺たちは価値がなくなる恐怖を買う>
小麦がさらに値を下げていく。
――5.28ディム。
――4.82ディム。
――4.50ディム。
そんなときリックが駆け寄ってきた。
「アル! 止まらねぇぞ! お前について正解だ!」
興奮の色が隠せていない。
「恐怖は連鎖するもんだ。だからまだ下がるぞリック」
「そうなのか? もうほとんど買い戻しっちまったぞ」
「それはもったいないな」
「俺は、アルと違ってチキンハートなんだよ! まあ、お陰で儲かったけどな」
便乗で儲かった奴には、報酬を要求するのが正しい対処法だ。
「そうか。だったら今度、奢れよ。リック」
「何言ってるんだよ。アルの方がよっぽど儲けてるだろう」
「それは別の話だ。今回の儲け、俺に感謝すべきだろ?」
「ったく。それを言われると立つ瀬がないな。仕方ない。奢ってやるよ」
こういう気持ちいい返事をしてくるあたりやはりリックはいいやつだ。
「ただし「紅毛屋」だからな?」
「ああ。それでいい」
ケチ臭い条件に苦笑しながら返事をする。
「まったく。ビンボー人にたかるのは感心しないぞ」
そう文句を言いながら空中に向かうリックの背中を見送って、アルカナプレートに視線を戻す。
そんなバカ話をしている間にも相場は下げ続けていた。
――4.25ディム。
まだ、売りの波が止まっていない。
――4.13ディム。
だが……
――4.00ディム。
売りの波が一瞬静止した。
俺は深く息を吸い、念話を送る。
<――ここまでだ。買い戻すぞ>
ここまで売った空売りした小麦は1650万、平均価格は11.36ディム。
――金額にして1億8744万ディム。
<はい! 買い注文、入れます!>
アイラの魔法陣が数多広がり、光が走る。売りの波を飲み込むように、数字が反転を始めた。売り注文が俺たちの買いとぶつかる。
<すべて約定しました! ポジション全決済です!>
<平均買い付け値段は?>
<4.05ディム。およそ1.2億ディムの利益です>
アイラの念話が震えている。
――上出来だ。
<完璧だな>
<ティタニア、そっちの準備はいいか?>
<準備完了よ。標準魔力石、3214ディムね。午前中に比べて200ディム位安いわ。小麦が崩れたことで商品全体に売りが出てる感じね>
ティタニアの分析は正しい。だが、下げの本番はこれからだ。
<板状況を教えてくれ>
<ちょっとまってなさい>
アルカナプレートに板状況が反映される。
3200ディムに厚い買いがいる。金額にしておおよそ2億ディム。
魔力石の板は厚い。だが――
<売るぞ。ティタニア>
<正気なの?>
<いまが、勝負時だ>
<リスクが高すぎない?>
<大丈夫だ。空の魔力石がセレスティア商会の倉庫にはたんまりある。これからフレイジアの加工手法が公開されれば、空の魔力石と標準魔力石の価格差は縮まる。これを使う。裁定取引だ>
仮に、値段が反転しても空の魔力石にフレイジアを使って魔力充填すれば標準魔力石として渡すことができる。
――リスクは限定的だ。
<とりあえず3000個ずつ売るぞ>
<3000個? ずいぶん雑に売るのね。さっきは10個ずつ300回くらいオーダーフォームを発動したからとても疲れたんだけど?>
<午前中は、市場の感覚を見極めるための売りだ。目的が違う>
<まったく、わかったわ。売りを出すわよ>
ティタニアが魔法陣を展開するのを確認しながら、アイラに念話を送る。
<アイラ、疲れているところ悪いけどティタニアの援護に回ってくれ>
<わかりました!>
<ティタニアの売りから漏れた細かい板を3200ディムより上で全部売ってくれ>
<全部ですか?>
<そう、全部だ>
<……わかりました。やってみます>
ティタニアの売りに合わせてアイラも魔法陣を展開する。
次々と売りが約定していく。
俺たちの売りが3200ディムの買い板をすべて飲み込んだその時だった。
魔導スクリーンが再び赤く光る。
『速報:フレイジアを用いた空の魔力石再生技術確立へ――魔力石供給増の見通し』
ざわめきが爆発した。
怒号と悲鳴が入り混じる。
「ふざけるな! 魔力石まで暴落するのか!」
「このニュース連動してる……!? 魔力石も崩れるぞ!」
ティタニアから念話が飛ぶ。
<魔力石、3000を割ったわ……!>
アイラの念話も興奮が入り混じっていた。
<空の魔力石は、暴騰しています。1個5ディムを超えてます>
<理屈が理解された。それだけだ。まだ上がるぞ>
俺は念話に応える。
そこからは、簡単だった。
魔力石と空の魔力石の価格差は小さくなり、すべて決済を終えたころには、アルカナプレートに莫大な利益が記録されていた。
――2.7億ディム。
セレスティア商会の3年分の利益を一日で稼ぎ出した瞬間だった。




