第78話 「魔素汚染」
~憲章暦997年4月25日(闇の日)~
セレスティア商会が取引所前の広場に屋台を出してから、すでに1週間が経っていた。
特に『マンタイム風ソース焼きパスタ』は取引所関係者の間で評判になり、昼の鐘が鳴る前に完売することもしばしばだ。
香ばしい匂いと湯気が漂う広場は、もはや取引所前の名物として知られるようになっていた。
「……あの屋台、もうすっかり定着しましたね」
アイラが、取引所の窓越しに外を眺めながら言った。
外では、セレスティア商会の面々が忙しなく準備を進めている。
「これは、いい目の付け所だったわね」
ティタニアが小さく笑いながら腕を組む。
「そうだな、いい商売になりそうだ」
そう答えながら、俺はアルカナプレートを指でなぞった。
プレートに映し出された小麦先物価格は、相変わらず高値圏を維持している。
チャートは緩やかに右肩上がり、買いの勢いは衰えていない。
「……にしても、すごい気配ね」
ティタニアがプレートの光を覗き込み、眉をひそめる。
「前よりも板の厚みが増してる。買い手が明らかに増えてるわ」
「群衆心理だ。上がると思えば、誰も売らない」
「でも、これだけ高値が続くと、どこかで弾ける気もします」
アイラの言葉に、俺は小さく頷いた。
相場というものは、少しずつ狂っていくものだ。
取引開始の鐘が鳴る。同時に、トークンコアの周囲に魔法の光が満ちる。
<小麦、フレイジア、魔力石、空の魔力石の情報をくれ>
<今行きます!>
アイラが即座にデータを送ってくる。
そのとき――
取引所の中央にある魔導スクリーンが、突如として赤く点滅した。
『速報:アーガナス近郊の大穀倉地帯に巨大なダンジョン出現。魔素が噴出し、周囲の農地に大規模な魔素汚染が発生!』
この一文に、取引所は一瞬で騒然となった。
「アーガナスだって!? レオリアの主要穀倉地帯じゃないか!」
「魔素汚染!? 農地がやられたら今年の収穫は……!」
誰かの叫びが飛び交い、取引魔法士たちが慌ただしくオーダーを走らせる。
その混乱の中を、リックが空中から降りてきた。
頬には汗が浮かび、息を弾ませている。
「アル! これ完全に上だろ!」
リックは興奮気味に声を上げ、俺の肩を叩いた。
「買いの連鎖が始まるぞ! 今のうちに乗れ!」
リックは、そう言って空中に戻っていく。
あちこちで魔法陣の光が瞬くたび、数字が跳ね上がる。
――10.23ディム。
――10.65ディム。
――10.96ディム。
板はすでに買い注文で埋まり、売りは瞬時に消えた。
<アルヴィオ、これ……やばいわよ。完全にパニック買いよ>
<ええ。市場全体が魔素汚染のニュースを材料にしてます>
アイラの報告に、俺はわずかに目を細めた。
<……やはりな>
<なにが?>
<この動き。誰かが最初からこの上げを仕組んでた>
俺は指先でアルカナプレートに表示された小麦のチャートをなぞる。
急角度で上昇するライン。増える出来高。小麦に投資している連中の平均買付価格は確実に上がっている。
少し考えを巡らせ決意を固める。
<アイラ! 売るぞ! ショートだ!>
<えっ、でも……! 上がり続けてますよ!?>
アイラの困惑する声。
<アルヴィオ、あなた正気なの?>
<群衆が熱狂してる時こそ、仕掛けるチャンスだ>
俺は、深く息を吸った。
<アイラ、ここから買いフロー受け止める。できるか?>
<やってみます>
<まず11ディム以上を売る! 11から0.02刻みで10万ずつ12まで指値を入れてくれ>
<はい!>
アイラはそう返事をして、大量の魔法陣を展開した。
【用語】
ショート(ポジション)とは、「価格が下がると利益が出る」取引ポジションのこと
例:現在、小麦10kgあたり12ディムで取引されているとします。
◎ショート(売り建て)を行う
投資家は「小麦価格は下がる」と予想。そこで、10kgを 12ディムで将来売る契約 を取引所で行います(=ショートポジション)。
◎価格が下がった場合
将来、小麦価格が 8ディムに下がったとします。
投資家は市場で8ディムで買い戻して(反対売買)、契約を清算。
売った12ディム − 買い戻した8ディム = 4ディムの利益。
◎価格が上がった場合
小麦が 16ディムに上昇したら、
売った12ディム − 買い戻した16ディム = 4ディムの損失。
注意点としては、通常の買い(=ロングポジション)と違って上昇方向は、上限がないので損失が投資額よりも遥かに大きくなる可能性があることです。




