第77話 「ソースの香り」
~憲章暦997年4月20日(星の日)~
モスタール要塞でレオリアとアズーリアの戦端が開かれてから一週間、連日のように戦況が伝わる。ティラナ島の防衛線は、アズーリアの新兵器の前に苦戦を強いられているらしい。
小麦相場は、戦争の長期化を見込んだ投資家の買いが集まり、依然として高値を更新していた。
取引所の魔導スクリーンには、数字が絶えず書き換えられている。
昼前の市場は、小麦の買い注文で埋め尽くされていた。
青白い光の文字が、ほとんど休みなく点滅する。
――8.68ディム、前日比+4%。
買い圧力は衰える気配を見せない。
「……上がりっぱなしだな」
俺はつぶやきながら、アルカナプレートに映る小麦のチャートを見つめた。
急騰のあと、少しだけ下げて、またじりじりと上がる。
<アルヴィオ、さすがにそろそろ天井じゃない?>
ティタニアからの念話が飛んでくる。
<いや……まだ売り抜けの雰囲気じゃない。買いが続いてる。この動き方は、どこかにまだ材料が隠れてる証拠だ>
<材料?>
<ああ。戦争が始まって供給不安って話はもう折り込み済みだ。それでも上がってるってことは、誰かがまだ知らない何かを掴んでる>
俺はスクリーンから視線を離し、周囲の投資家たちを見渡した。
取引所の空気は、ひどく熱を帯びている。売り手は少なく、買い板ばかりが積み上がる。
<アイラ、どう見る?>
<買いたい投資家の数が減っている感じがしません。むしろ、誰かが意図的に板を支えているように見えます>
なるほど、アイラらしい冷静な分析だ。
<たしかに。言われてみれば焦りがない。むしろ誰かが落ち着いて買ってるわ>
<――まるで、何かを待っているみたいに>
ティタニアの言葉に、俺は小さくうなずいた。
――この相場で勝つにはその何かが必要だ。
俺は、腕を軽く伸ばした。
午前の取引もそろそろ一段落だ。
<昼にしよう。頭を冷やす>
ティタニアとアイラも頷き、三人で取引所を出る。
扉を開けると、昼の陽光が目に刺さった。
外の広場には、香ばしい匂いが漂っていた。
「……屋台が出てるのね」
ティタニアが目を細めた。
広場には十数軒の屋台が並び、どの店先にも行列ができている。
立ちのぼる湯気、焼けたパンの香り、ソースの甘い匂い。揚げ物から麺類まであらゆる料理が提供されている。
「これがフィリア様が言っていたセレスティア商会の屋台ですね」
アイラがセレスティア商会の紋章が入った看板を指さす。
その中央で、見覚えのある姿が腕まくりをしていた。
「ヒカリ……だな」
ヒカリはエプロン姿で、屋台の中に立っていた。
髪が汗で張りつき、真剣な表情でソースをかき混ぜている。
「はいはーい! お次の方どうぞ! 『マンタイム風ソース焼きパスタ』ひとつ5ディムです!」
周囲には、しょうゆによく似た香ばしい香りが漂う。
「アディスさん!」
こちらに気づいたヒカリが手を振る。
「すっごい行列なんです! お昼のピーク前にもう売り切れそうなんですよ!」
「繁盛してるな」
「はい! アディスさんもおひとつ如何ですか?」
「じゃあ3人分もらっておく」
「はい! 3つで15ディムです」
アルカナプレートで支払いを済まして、周囲を見渡す。
反対側の屋台にはエルヴィナの姿もあった。
白衣に三角巾を巻き、真剣な顔で焼き上げたパンを並べている。
「焼き立てはいかがですか?」
エルヴィナの呼び声は落ち着いていたが、客たちが次々と手を伸ばしていた。
客のほとんどが取引所関係者、すなわち投資家か取引魔法士だ。周辺の昼食メニューに飽きた市場参加者たちが新しい味を求めて殺到していた。
俺たちは、屋台の喧騒から抜け出し、広場の片隅に腰を下ろした。
手には、先ほどヒカリから購入した『マンタイム風ソース焼きパスタ』。アイラとティタニアの分も確保してある。
湯気が立つ紙皿の上には、茶色いソースをまとった麺。
見た目は地味だが、香りが鼻腔をくすぐる。
一口すすれば、旨味としょうゆのような香ばしさが舌に広がった。
「……うまいな」
思わず声が漏れた。
「ふふ、この間、ヒカリさんが開発したソースが効いてますね」
アイラが柔らかく笑う。
「本当に。おいしい。食べたことない味だけど。パスタも普段食べてるものよりもっちりしている気がするわね」
ティタニアもフォークを動かしながら感心していた。
ふと見れば、周囲の客も同じように頬をほころばせている。
取引所の緊張感とは正反対の、穏やかな昼の光景だ。
『マンタイム風ソース』の香りが風に乗り、屋台の列がさらに伸びていくのだった。




