8.きっとまだ名前はない
頬を染められるか、それとも顔を青ざめさせるか。大抵はそのどちらかの反応しか見たことがないグレイにとって、初めて会ったルビィの反応は驚くべきものだった。
隙がなかったことにももちろん驚いたが、令嬢という点を除けばそういった相手はゼロではない。今の自分が最強などと自惚れてもいないので、自分より強者の暗殺依頼を受けた場合はアレクセイや執事などに相談するのがグレイの常だ。しかしルビィは隙がなかっただけではなく、殺していいなどと宣った。理由は面倒臭いからだと言う。さらに、殺さないならば寝てもいいかとまで言ったのだ。
興味なさそうにナイフを見つめるその眼差しに、背筋が震えた。殺してもいいと隙を見せた姿に、全力で戦った末に負ける未来が見えて喉が鳴った。結婚しようと告げたあと向けられた呆れ果てたような視線に、胸が震えた。
若干変態が入っている気がするが、グレイ自身は至って真面目だった。真剣に、ルビィと出会ったときそう感じていたのだ。
「どうしたらいいと思う?」
「俺に聞いたってしょうがねぇだろ、そんなこと」
グレイの部下だと思っている。そうルビィから言われたグレイは、彼女を送り届けたあと自室で項垂れていた。
それが本当に恋だとか愛だという感情かどうかは、グレイもまだわかっていない。だがしかし、少なくとも好意はあると彼は判断していた。だからこそ、本当の気持ちかは置いておいて、誇張しすぎているが〝愛している〟と伝えたのだ。一度ではなく何度も、「好意」を持っていると。
現段階では嘘が混じっているという自覚はあるが、ルビィ相手なのだから大きく言わなければ信じてもらえないだろうという考えもあってのことだ。全く眼中になさそうな反応を最初にされたことも大きいのだろう。だが、それらが全然響いていないとはどういうことか。この顔と家に靡かない令嬢などいなかったために、これ以上どうしていいかがわからない。
隣に立つ護衛、そして仕事の相棒でもあるジェイにやつ当たりをするように、グレイは無言で睨みつける。ジェイが満足いく返答をくれなかったことも大きいのだろう。
「……そもそもあの日は簡単な仕事だからって俺をおいて行っただろうが。〝噂〟はなんとなく知ってるが、〝今〟のルビィ嬢を知らない俺がどうしたらいいか導き出せるわけねぇだろ?」
「苦し紛れでもなんでもいいから言って」
「はぁ? めんどくせぇ」
「あ、今日からめんどくせぇって言うの禁止」
「は?! なんでだよ!」
「ルビィがよく言うから」
「うわぁ……。グレイ、お前それで好きじゃないとか嘘だろ」
ロゼ家の経営する孤児院から武芸と記憶力を認められ引き取られたジェイは、グレイより3つほど年上の十八。グレイはジェイを本当の兄と同じように慕い、ジェイもまた弟のように接している。
連れてこられた当初は遠慮していたジェイだったが、グレイの父アレクセイや兄のニコラウスまで同意したらもう断れなかったのだ。結果、今のような仲睦まじい関係が出来上がったのである。
「好ましいとは持ってるよ? でも、これが恋かどうかはまだわからないね」
「なら、それをルビィ嬢が気づいてたんじゃないのか?」
「分かってた?」
「そ。グレイが自分のことを本当に好きなわけじゃない。愛してるわけじゃないってちゃんと気づいていて、その上で今の関係をどう表すかってなったとき、彼女の中では上司と部下がしっくりきたんじゃないのか?」
「まあ、それなら……わからなくはない。わからなくはない、けど」
なんだかんだ言いながらも考え、答えを出したジェイにグレイは顎に手を当てて何かを考えるように目を閉じた。そして一言、言葉をこぼす。
「不満」
「何がだよ」
「俺が、ルビィを好きじゃないって思われてるってところが」
「お前さ、やっぱもう惚れてるだろ」
「どっちかって言うと、お気に入りのおもちゃを見つけた感覚に近いと思うんだけどなぁ」
初めて見つけたおもちゃ。
新しい形のおもちゃ。
グレイには、ルビィがそう見えた。いつもと違う反応をする、普通とは違うもの。だが、おもちゃだと思っていたなら、そのおもちゃが何を考えているかなんて確かに気にしない。そこまで考えて、閉じていた目を開く。
「まぁ、その辺はもう少し考えてみるよ」
「おー。まぁ、結婚するんなら甘い言葉にホイホイ釣られる子よりいいんじゃねぇの?」
「そう? 簡単に言うこと聞く子の方が楽だと思うけど」
「うっわ、辛辣」
「結婚に感情はいらないよ。どの家に入ったとしても、俺はロゼ公爵家での生き方しか知らないし。変えるつもりもないんだから」
先ほどまでの様子が嘘のように、グレイは姿勢を正した。彼の生き方を知っているジェイは、同意するように小さく頷く。
「俺もそうさ。辺境伯領は魔物との戦いもあるんだろ? 腕は鈍らなくて良さそうだ」
「そうだね。人と魔物、両方を相手にしなきゃいけないから、ジェイも怠けてられないよ?」
「俺がいつ怠けたよ」
「え? 毎日?」
「お前の護衛してんだよっ!!」
軽口を叩き合い、夕食の時間だとグレイは席を立つ。ジェイも後ろに続き、グレイの部屋から廊下へと出た。
「でもよ。もしルビィ嬢が本当に殺しが出来る側の人間なら、楽しくなるんじゃねぇか?」
「そう?」
部屋の扉を閉めながらそう言ったジェイに、グレイはよくわからないなとでも言うふうに首を傾げた。
戦うことが好きなグレイとしては、手合わせをしてみたいとは思う。だが、そうだとして生活に彩りが加わるのだろうか。血生臭い人間が増えて、本当に楽しいと?
「グレイは好きだろ? この家」
次のターゲットの話も出れば、編み出した技の話だってする。仕事柄もあり、ロゼ家に裏切り者が出ることはほとんどない。使用人と呼ぶのは憚られるほどに優秀な、それこそ部下のような彼、彼女らも家族の一員であり、命をかけて命令を遂行する仲間でもある。
「そうだね」
ルビィとも今、辺境伯を断罪するため手を組んでいると言っていい。これが結婚すれば家族となり、仲間となるのだ。ルビィが自らをグレイの部下というのもあながち間違っていないのではないか、というジェイに、グレイは廊下を歩き出しながら口を開く。
「いつかは、彼女が俺の背を守ってくれると?」
「むしろ、お前が彼女の背中を眺めることになるんじゃないか?」
「…………」
愛する人と背中合わせで戦場に。なんてロマンチックだなと考えていたグレイは、ジェイの答えた様が想像できてしまって思わず口をつぐんだ。
「おい、冗談だぞ?」
「会ってみればわかるよ。冗談じゃ済まなそうな人間だって」
「は? グレイ、お前そんな化け物と結婚するのかよ」
「父上に、俺の手に負える人間じゃないんじゃないか、って言われた」
「まじか」
馬車の中でのアレクセイとの会話を伝えれば、それ以上は何も言えずジェイは口籠る。しかし、まだ彼はルビィに会ったことがないのだ。可愛らしい名前と、貴族の令嬢という情報だけでは信じられないのも無理はない。
「ルビィは受験まで王都にいる予定だから、仕事が重ならなければ着いておいでよ。紹介もしたいし」
「楽しみなような、恐ろしいような」
「あ、でも」
戦々恐々としているジェイの前で足を止めたグレイは、くるりと振り返ると彼を壁に押さえつけた。二人の実力は拮抗しているが、不意を突かれればジェイになす術はない。壁に縫い付けられたジェイはグレイを見下ろし、黙って言葉の続きを待つ。
「次ルビィを化け物呼ばわりしたら、いくらジェイでも許さないから」
「……おう」
座った目で告げるグレイに、やっぱり惚れてるじゃないか。とは、言い返せなかった。