エピローグ -2
「あれ、珍しいねぇ。君の方から、ここに来るなんて」
その男はにこやかに俺を迎えた。
俺は彼のデスクに目を走らせる。
何台かのPCの一つに目星をつけて、それを指さした。俺には分からないが、データらしきものがびっしり表示されている。
「それが、今回の脳みそか」
彼は視線を俺から、PCの画面に移すと、あっさり頷いた。
「ああ、君が担当したっていう対象のだね。何回かショックが出てから、ノイズが出て、クラッシュしたんだっけ?」
何でもない事のように言う。
実際こいつにとっては、何でもない事なんだろう。
クラッシュしたバケモノの脳は、例外なく「なかよしマート」に回収される。自死にしろ、浄化にしろ、脳の損傷は酷いことが多いが、どんなにぐちゃぐちゃでも、綺麗に回収されてしまう。
棺の中に横たわっていた正太の頭の中も、すでに回収されていて、空っぽだったわけだ。
回収した脳のデータは、もれなくこいつが目を通す。
天才脳外科医であり、精神科医でもある、ロストアンガー施術の開発者、有川光。
「それで?何聞きにきたの?」
俺よりも若い天才は、人懐っこい笑みを浮かべて、興味ぶかそうに俺を見た。
「用事がないと、君は来ないでしょう?」
「……結局、ノイズが出て、クラッシュした」
「うん」
「しかも、正太の精神環境が落ち着いてきた矢先に、ノイズが出た。そこから急に、クラッシュだ。結局ショックも、ノイズと一緒だったってことじゃないのか?」
思い出しただけで、震えるほどの、怒りと後悔が湧いてくる。
ショック状態はノイズとは違うと言われ、疑いながらもそのまま信じ、なんとかノイズが出ないように、その原因となりそうなものから正太を救おうとした。
だけど、ショックがもうノイズと同じだったら?俺たちは刺激をあたえてしまっただけじゃないのか?
有川はしばらく黙っていたが、ついにため息をついた。
「ヒトの精神はそんなに単純じゃない。一時良い方向に向かっているように見えても、また落ちてを繰り返す。そもそも、よくなっているように見せかけていただけかもしれない。落ち着いてきたからって、手放しで喜んだの?馬鹿だなぁ」
俺は有川の目を見たまま、黙っていた。
有川の表情が変わる。今度は好奇心に目を輝かせた、子どものような顔。
「今回のことで一つ分かったことがある。今回の対象にショック現象が起きていたのは、ロストアンガーを受けてからも、生活状況が変わらなかったからだと思う。普通、ロストアンガーを受ければ、本人が変えるなり、周りが変わるなりして、生活がガラリと変わる。今回は、それがなかった」
確かに、正太が母親の支配下のもと、受験を強いられる状況は変わらなかった。
「それが、変わったことによって、ロストアンガーが正常に機能した。その後、ノイズが出たんじゃないかな」
言いながら、有川は頭を掻く。
「まぁ、サンプル一つじゃ、実証できないけどね」
サンプル……有川の言葉を聞いて、正太が落ちていく時の目を思い出した。どんな事実も、人の想いも、この男にとってはサンプルの一つに過ぎない。
それを今さら、どうこう言おうとは思わない。
言う権利もないしな。
ただ、いけ好かないと思うだけだ。
「……つまり、俺たちが助けたから……」
心にかかっていたことが、また口をついて出る。
「違うよ。助けてない」
ピシャリと有川が遮った。
「君たちが助けられてなかったから、ノイズが出ちゃったんだよ」
ゆっくりと有川の唇の両端が上がる。
嬉しそうに歪んだ笑顔は、人の死を嬉々として語る死神のようだった。
ゆっくりと有川は囁いた。
「素人が出しゃばって、救おうなんて思うから、こんなことになるんだよ」
俺は動かなかった。
ここで逆上したら、有川の思うつぼだ。
「ところで、君の体調はどう?」
急に有川が話題を変えた。
俺は警戒しながら、答える。
「何とも、普通」
「アキラちゃんは?今度連れてきてよ」
「……連れてこない。お前、殺されるぞ」
アキラはロストアンガーが嫌いだ。そして、その開発者に対しては、殺意すら抱いている。
「僕の心配をしてくれるの?」
「まさか」
有川の禍々しい笑顔を見ながら、俺は吐き捨てた。アキラを殺人者にするわけにはいかない。
「連れてきてよ。そろそろ会わせてみたいんだ。どうなるか、見てみたい」
その言葉の意味を理解して、瞬間、俺が殺しそうになった。何とか、殺意を押し殺して、有川を睨む。
「ふざけんな」
有川は鼻で笑う。
「過保護だなぁ。でもさ」
顔を近づけてきて、嬉しそうに囁く。
「僕が連れてきてって、本気で言ったら、そうなるよ」
俺は反射的に身体を引き離した。
この、サイコ野郎。
「アキラはお前のモルモットじゃねえよ」
睨みつけても、有川は動じることなく、俺を観察するような目で眺めている。
気分が悪い。これ以上、有川に嬲られるのはごめんだ。
有川から目を逸らし、俺は部屋を出ようと、身を翻した。
その背中に、有川の「マル」と呼びかける声が、追いかけて来た。
「僕は君の事、好きだよ」
ぞわぞわっと悪寒が背中を駆けあがる。
「だって、言うだろ?失敗は成功の母って」
俺はその声を断ち切るように、扉を閉めた。




