5 異変 -1
「ああ、進藤さん」
予備校の側で待っていた俺を見つけて、正太が顔を綻ばせた。
「まだ、僕に付いてくれてたんだね」
「まあな」
正太が予備校に自分の意思で行き始め、なな美は高校に毎日通えるようになった。
母親に許可を取ったわけではない。変な話だが、ちゃんとそれぞれ勝手に学校に行っているわけだ。
正太の調子がいいので、志ず江はなな美に構わなくなった。
俺とアキラは、一応それぞれ二人の登下校を見守っている。
アキラはそろそろ飽きてきて、「もう、このまま解決しちゃうんじゃないですか?」と、呑気なことを言い出している。
俺はそこまで楽観視はしていないが、このまま落ち着いていかないかな、と期待を抱き始めている。
「調子よさそうじゃないか」
俺が言うと、正太は「ええ、まぁ」と言葉を濁した。
「進藤さん、時間ある?」
急に言われて、俺は何度か瞬きした。
「まぁ、あるけど。お前ら次第だし」
「じゃあ、ちょっと付き合ってよ」
「へ?」
「飲みに行こう」
すぐに返事できず、まじまじと正太を見る。そりゃ、正太はもう立派な成人だ。「飲みに行こう」というお誘いは、至極普通だ。
「……お母さん、大丈夫かよ」
母親から離れることを勧めてはいるが、心配になる。正太が帰ってこないと、怒りで狂ってしまうかもしれない。
「ちょっとなら、大丈夫だよ」
正太の口から出たとは思えないセリフに、俺の方がビビってしまう。
でも、せっかくの機会だ。ここで、俺が「お母さんが怖いから今日はやめとけ」とは言えない。
「お前、酒飲んだことあるのかよ」
ゲーセンすら経験がなかったのだ。もしかしたら、もしかする。
「ないよ」
あっさり、正太はそう言った。
「だから、飲んどきたいんだよ」
ドキリとした。
こんな言い方を、俺は知っている。
だがその出かかった想いを、俺は飲み込んだ。
そんなはずはない。
「じゃあ、行くか。俺も久しぶりだわ。最近ずっと未成年(お子さま)と一緒だったから」
白々しいほど機嫌よく言うと、正太もハハと明るく笑った。
そうさ、そんなはずない。こいつはバケモノなんだから。
まだ早い時間とあって、店はガラガラだった。
チェーン店の安い居酒屋。俺はとりあえずビールを二杯頼んだ。
飲酒初体験は、合わなかろうが、美味しくなかろうが、日本人はビールだろう。
正太はホテルの時と同じように、キョロキョロと店の中を眺めていた。
やがて視線は「お品書き」にたどり着き、参考書でも読むように、目が文字を辿っている。俺たちなら、パッと見ただけで把握できるメニューが、正太にとっては未知なる新出単語なのだろう。
ビールはすぐに運ばれてきて、元気な店員の声と共に、勢いよくテーブルに置かれた。
「ご注文、承りましょうかぁ?」
手際よくペンとオーダー票を取り出す店員に、正太は分かりやすく、あたふたする。
「とりあえず、枝豆とたこわさ」
苦笑しながら、俺がオーダーすると、なんだか尊敬の眼差しを向けられてしまった。
店員の後ろ姿を見送って、俺はジョッキを持ち上げて、正太を促す。正太もぎこちない手つきで、そろそろと持ち上げた。
「お疲れ」
そう言ってジョッキをぶつけると、正太はかしこまって、「お疲れ様です」と返した。
そんなに強くぶつけたつもりもないのに、正太は少しジョッキごと後ろに押された形となった。
そろそろと口をつけて、きっちり苦さを感じただろう瞬間に、眉間にしわが寄る。「苦っ」という声が聞こえてきそうだ。
本当に初めてなんだなぁ、と親戚のおじさんのような気持で、眺めてしまった。
「そういえば、お前コーラが駄目って、炭酸が駄目なのか?」
ビールに集中していた正太は「え?なに?」と訊き返してきた。俺が質問を繰り返すと、「あー」となぜか気まずそうに相槌を打った。
「炭酸は大丈夫。他の炭酸飲料は飲めるし。やっぱり、味かなぁ。まずいとは思わないんだけど、気持ち悪くなっちゃうんだ」
「ふーん」
一方、ビールは果敢に飲んでみようとするほどには、美味しかったらしい。ごくごくのど越し爽やかに、とまではいかないが、ちびちびと飲み続けていた。
「どっちが、飲める?コーラとビール」
よせばいいのに、俺はいたずら心から、そんなことをきいてしまった。正太はちょっと考えて、目尻を下げて答えた。
「コーラは特別だから」
地雷を踏んでしまったのは明らかで、二人の間に気まずい沈黙が流れた。
俺は「そうだな」とだけ答えて、謝る代わりにビールを飲んだ。謝ってしまいたいくらいだが、それでは余計正太を傷つけてしまうだろう。
地雷を踏んだついでと言ってはなんだが、俺は正太に聞いてみたいことがあった。今まで、何人かのバケモノに相対し、話をしたこともあったが、この質問ができたことはない。
周りに聞こえないように、声を潜める。
「お前さ、施術受けて良かったと思う?」
後悔していると答えられたらどうする気だったのか。対象にこんなこと訊くなんて、本当に魔がさしたとしか思えない。
だが、正太はまじまじと俺を見たが、明るく言った。
「思うよ。盗りたくないのに、盗ってしまうのは、本当につらかったから」
「そうか」と俺が安堵して頷こうとした時、「でもね」と重ねられてしまった。
笑顔が、いつの間にか懐かしいものに恋い焦がれているような、顔になっていた。
「あの場所に、帰りたいなぁと、思うこともある」
「どんなときに?」
ごく自然に俺がそう訊ねると、正太は「それは秘密」と微笑んだ。
正太はもう答える気がないというふうに、穏やかな顔で、ビールを美味しそうに飲んだ。




