3 正太 -5
「おい、ほんとにコイツって」
「ほんとにバケモノですって。マルさんもバマホ見ればいいでしょ?」
「そうなんだけど、そうなってるけど、でもなぁ」
俺とアキラはホテルの俺の部屋の隅で、ひそひそと小声でしゃべっていた。
ベッドには一人の若い男が腰を掛けて、氷嚢を頬に当てながら、珍しそうに、珍しくもない普通のビジネスホテルの一室を見回していた。
あの路地で、正太が蹲ったまま動かなくなってしまったので、仕方なく俺たちが泊っているホテルに連れてきたのだ。あそこに放置していたら、またカモられる。しかも、渡す財布がないのだ。どんな目に合わされるか、分かったもんじゃない。
「この子が体験の時、同じクラスだったらしいな」
話しかけると、正太はそのまま素直に俺の顔を見た。
それから、ちょっと口元を緩ませた。微笑んだのだ。
「やっぱり、そうだよね。何も言わないから、違ったのかと思った」
ほっとしたような顔をされて、少し罪悪感に胸が疼いた。
「人見知りなんだ」と苦しい言い訳をして、先を続けた。
正太は熱心に耳を傾けている。その顔はなかなか可愛らしくて(二十四歳の男に可愛いが誉め言葉かは、別として)、好感が持てた。その目をまっすぐ見ても、俺は嫌な気分さえしなかった。
本当に……
先ほど散々念押しした疑問が、またぞろ浮かび上がってきて、俺は努力してその疑問を呑み込んだ。
確かに、バマホはずっと目の前の男を指し示している。
「坂巻君、だよね?俺は進藤。娘の為に予備校を探してるんだけど、なかなか合うところがなくてね。だから、こんな時期に体験なんてさせてもらったんだよ。アキラは高校もまともに通っていない。勉強も嫌いな癖に、大学に行きたいなんて言い出してね。まぁ、でもそんな生徒には、どこの予備校も冷たくて。お金が取れるから、入れてはくれるけど、親身にはなってくれないよねぇ」
つらつらと適当なことを言っていると、後ろからアキラに蹴りを入れられた。
正太は熱心に聴いてくれ、俺の後ろにいるアキラを見ようとしたが、アキラは相変わらず、俺の後ろでブスッとしていた。
「坂巻君は、どこを狙っているの?アキラは、坂巻君は頭がいいって言ってたよ」
熱心に聴いていた正太の目が、急にぼんやりした。それから我に返ったように、すうっと焦点が戻ってきた。
「K大」
「K大⁉」
後ろから、アキラが大声を出した。アキラでも知っている有名大学だ。
「すごいな」
俺が素直に感嘆してみせると、正太は首を横に振った。
「願書は誰でも出せるよ」
「いや、そんなことねぇよ。そこを狙えるだけの頭があるってことだろ」
俺は本心からそう言ったのだが、正太は照れることも、謙遜することも、喜ぶこともしなかった。ただ諦めたような、寂しげな顔で俺を見た。
「そうだね。だから、いつまでもつづけなくちゃいけない」
いつまでも?
俺が疑問に首を傾げた後ろから、アキラが顔を覗かせた。
「いつまでもって、試験までだろ。とりあえず」
そう言ってから、また俺の後ろに隠れる。
俺たちの口調は、いつの間にか、普段通りくだけたものになっていた。それだけ、正太に気を許していた。
正太は頬に当てていた氷嚢を外した。頬は赤くなっていた。腫れてきたというより、冷やしすぎたような色だった。
片頬を赤くして、正太は途方に暮れた子どものように見えた。
「僕は受からないよ」
妙にはきはきと正太は言った。
「え?」
「僕は頑張れないんだ。どうやっても、意欲が湧いてこない。そもそも、K大に入りたいと思えない。それは多分ね、僕がロストアンガー施術を受けてるからだよ」
あまりに正太が何でもない事のように言ったので、俺たちは聞き間違えたのかと思った。バケモノたちが必死に隠そうとしている事実を、事も無げに、正太はサラリと披露した。
「ロストアンガー?」
呆然と繰り返したアキラの反応を、当然だが、正太は誤解した。
「ああ、大丈夫だよ。施術を受けたから、もう罪を犯すことはないんだ。そもそも、僕の罪は窃盗だしね」
だからつまりね、と、正太はこっちの方が大事だとばかりに、声を潜めた。
「僕が大学に受かりたいという欲求や、勉強しようという意欲が、施術によって消されてしまったんだ。だから、課題をこなすことはできるけど、それ以上勉強できない。実際、成績は上がって行かないんだ。もう一生上がらないんだ」
ロストアンガーのせいで。
「だからK大には受からない。ずっと受からないなら、いつまで受験生が続くんだろう」
俺は背後に殺気を感じた。アキラの怒気が高まっている。
俺はアキラが正太にとびかからないように、それとなくアキラを抑えた。
「じゃあ、やめればいいじゃん!」
とびかかる勢いを、アキラは叫ぶことで抑えてくれたらしい。アキラはケンカが弱いと言っていたが、それはこちらの世界では、ということだ。素人相手では、十分怪我をさせてしまう。
だが、その勢いをつぎ込んだ剣幕も、正太には効かなかった。
「母が望んでいるから。望んでいる限り、続くんだろうな」
まるで他人事のような物言いに、俺は寒気がした。やっぱり思ったとおりだ。逃れたい、という意欲すら沸かないのだ。
「お前はどうなんだよ!」
アキラは後ろで、また叫んでいる。こういう親子ネタは、アキラの神経を逆なでる。
無謀な戦いは、更にアキラの傷を広げるだろう。俺はアキラを引き寄せ、頭を撫で落ち着かせた。案の定、涙目になっている。
そんな俺らを、正太は澄んだ目で見ていた。その目に、俺は先ほどとは違う印象を受けた。
ガラス玉みたいだ。
「進藤さん、なな美の事、知っているよね?」
前触れなく、正太が急にそう言ったので、俺は一瞬、取り繕えなかった。
何も言えず、正太の顔を見ると、正太も俺の目を見ていた。
気が付いていたのか。
確かに予備校に行った初日、俺たちがなな美と一緒にいるところを、正太は見ている。だが、正太はなな美しか見ていなかったし、チラリと一度見ただけだったので、気づかれていないかと思っていた。
坂巻家に行った時は、正太の気配すら感じていない。
俺たちと同じく、正太も最初に何も言わなかったから、知られていないかと思っていた。
「僕はいいから、なな美を助けて欲しいんだ」
子どものような二十四歳のバケモノは、俺たちにそう懇願した。




