縁談
将軍に影の如く仕える
御側用人の間部越前守は
千代田の御城に詰め帰宅は年に数回。
ゆえに先代将軍の家宣の頃から
本丸に私室を与えられている。
その越前の部屋に、越前の相棒であり
政策顧問で儒学者の白石が訪れ
日の本一の頭脳を悩ませていた。
白石が眉間に火の字を刻みながら唸る。
「江島事件が片付き
魑魅魍魎を祓ったと云うのに
上様と幕府には
未だに暗い印象が付き纏っておる。
何か手を打たねばなりませぬな」
越前も美しい眉を微かに歪めながら答える。
「如何にも。それに月光院様の
相変わらずのあの御様子では
一位様は再び京にお帰りになりたいと
申されるやもしれませぬ。
こちらも京の御実家が動かれぬ内に
手を打たねば」
越前の言葉に白石はふぅむと顎を撫でながら宙を見る。
「一位様の御父上の太閤御方は
二年も江戸に滞在後に帰京された。
御夫君の文昭院様も亡くされ
お寂しいのであろう。
京をお懐かしみなのは
御親類が江戸におられないからでは。
何方か、京からお呼びできれば」
越前はその手があったと顔を明るくした。
「左様にございますな。
江戸に御親類がおられれば
一位様も心強いかと」
解決の糸口が見えかけた矢先
越前の部屋方が襖の向こうから
おずおずとした声で来客を告げる。
「あの、殿様…」
部屋方が遠慮がちに襖を静かに開けると
ふらりと老中の土屋相模守が入ってきて
白石を見るなり飄々と口を開いた。
「おや、これは白石殿、奇遇ですなぁ。
旨い饅頭が手に入ったゆえ
越前殿へ差し入れに参った。
御一緒に如何かかな?」
今回も相模守は絶妙な時に現れた。
腹心の部下が
どれ程御城に潜んでいるのやら。
「どうぞ、わしに構わず
ごゆるりと続きをお話あれ」
相模守は越前達の直ぐ側に当然のように座り
渋く微かに甘い声で言うと
にっこりと微笑んだ。
部屋方が遠慮がちに
そっとお茶と饅頭を置くと
相模守は寛いだ様子でお茶に手を伸ばし
美味しそうに一口含み天井を見る。
「そういえば、新しく藩主になられた
尾張の継友様には
まだ御簾中がおられませぬなぁ」
相模守独り言のように呟くと
饅頭を摘まみ千切って口に放り込んだ。
相模守の言葉を聞いた白石は
顔をぱっと明るくして
半分になった饅頭を持つ相模守の手を
がしりと両手で拝むように掴む。
「おお、流石、相模守様。
それは妙案にございまする。
一位様の御実家から
継友様の御簾中を迎えられては如何か」
隣の越前も力強く頷いた。
相模守は腕を掴まれたまま
無機質な目で、白石を見つめ返し
もぐもぐと饅頭を食む。
御三家筆頭尾張藩主の継友は
数ヶ月前に藩主を継いだばかりで
まだ正室がいない。
先々代藩主の吉道の弟の継友は
御控様として部屋住みの独身だった。
その継友の兄の吉道を
家宣は死の床で
時期将軍に指名しようとしていた。
あまりにも家継が幼いので
二十代の吉道を将軍にと思っていたのだが
白石と越前が大反対。
しかし家継が将軍になった数ヶ月後に
吉道が他界し
藩主を継いだ幼い息子の五郎太も
僅か三月で後を追い
吉道の弟の継友にお鉢が回った。
白石はいつもの冷静さを取り戻すと
越前と相模守に
前々から温めていた考えを話す。
「それでは、上様にも御縁談を。
まだ幼いとはいえ、将軍にあらせられる。
朝廷と御親類の一位様のお力添えを賜り
皇女様を上様の御台所にお迎えしたく。
目出度きことなれば
御城に馨しい風が吹きましょう」
白石の思いがけない縁談案に
幼い上様に心血注ぎ仕える越前の顔は
晴れやかに。
相模守は白石と越前をちらりと見ると
二つ目の饅頭を食べながらぼそっと呟いた。
「よい案ですなぁ」
越前と白石は同事に相模守を見る。
相模守の言葉に白石は再び
饅頭を持つ相模守の腕を掴み
喜びの声を響かせた。
「おお、相模守様。
筆頭老中の相模守様から
快い御賛同を頂けるとは。
それでは早速、一位様に御相談せねば。
越前殿、
宜しゅう一位様にお伝えくだされ」
「承知仕った」
越前と白石の生気が燦燦と漲る。
実はかつて、家継には縁談があった。
家宣は万が一自分が先立った後
実子に先立れ立場の弱い熙子を守るために
熙子の姪の尚子を家継の正室にと計画。
だが、尚子は家継より七歳年上。
先々の事を考えこの縁談は見送られ
後に尚子は中御門天皇の中宮となり
桜町天皇を産む。
人払いをした御対面所で越前は浮き浮きと
熙子に白石の提案を伝えた。
「継友様の御簾中に
五摂家筆頭の近衛家の姫を。
そして、上様の御台所に
皇女様をお迎えできれば
徳川初の快挙となり
幼い上様の御威光も増しましょう」
熙子はいつにない浮かれた越前に驚いたが
熙子としても可愛い家継の御台所に
皇女を、との希望はあった。
幼い将軍の権威を高めるには理想的な縁談。
しかし、前例もなく
熙子の考えだけでは難しいと思っていた。
越前によると既に白石の案に
老中達も賛同しているという。
斯くして家継と継友の縁談が
進められる事となった。
その夜
熙子の寝室の豪奢な布団の上で
透明な家宣が熙子を腕に抱いて
白石の縁談案を褒めていた。
『中々に良い案ではないか。
近衛の姫が継友の正室となれば
そなたも心強いであろう。
それに、尚子姫も良いが
皇女様を御台所に迎えられれば
霊元院様も
幕府を快く思し召しくださるやもしれぬ』
「そうでございますわね。
幼い上様の御威光もですが
院様の御心も和らいでくださると
わたくしも嬉しゅうございます。
文昭院様も乗り気ですもの。
わたくし頑張ります」
『うむ。頼んだぞ、熙子。しかし…』
「?文昭院様、どうかなさいまして?」
家宣が言葉を濁したので熙子は不思議に思い
見上げて聞き返したが
家宣はそれを逸らすように優しく微笑むと
熙子をゆっくりと布団に横たえ
胸に抱いて寝かしつけた。
皇女を迎えるといっても中御門天皇は
まだ子供なので霊元院の皇女が御台所候補。
家宣と熙子が霊元院を気遣う理由
それは、霊元上皇と熙子の父の近衛太閤との
長年の微妙な関係。
上皇は太閤に
幼い頃から対抗心を抱いていた。
皇別摂家の近衛家の内実は皇族。
熙子の生母は皇女だが
太閤の曾祖父も天皇。
そして霊元院は熙子の母の品宮の同母弟で
実の叔父。
霊元院の父、後水尾天皇の生母は
近衛前子。
幾重にも深く重なる皇室と近衛家。
太閤の嫡母は後水尾天皇の皇女で
父を早くに亡くした太閤は
後水尾天皇の御所で育てられた。
幼かった霊元院は皇太子で
父帝とは別居なのに、太閤は父帝と同居し
賢いと褒められ愛されていたのが寂しくて
それを引きずっている。
時は流れ、将軍岳父となった太閤が
幕府からも厚く持て成され
霊元院の幕府への心象も複雑。
家宣も熙子から二人の経緯を聞いており
気にかけていた。
熙子としてもこの縁談が纏まり
長年の二人の微妙な空気感と
霊元院の幕府への気持ちが
和らいでくれればと願う。
早速、熙子は京に帰った父の太閤と
弟の家熙に手紙を送った。
そして京都所司代の打診が
宮中と近衛家に伝えられた。