桜草
越前の帰りを待ちわびていた家継を
越前が抱き奉り表の玄関から
中奥の御座之間に戻ってきた。
越前のいない不安で荒ぶる家継に
老中達は振り回され右往左往して
でも、家継を心配していた老中達は
御機嫌な家継と越前の帰還に
ほっと胸をなで下ろす。
その御座之間には熙子から届けられた
堆く盛られた饅頭の山が幾つも鎮座。
越前は家継を抱き抱えたまま
信じられないという顔で立ち尽くす。
「上様、饅頭がたくさんありますな」
「わぁ、御饅頭がいっぱい。
えち、おろして」
「御意」
家継は饅頭の山に駆け寄ると
饅頭の積まれた三方を抱えた。
「みんなで食べたい。一個づつ取って」
可愛くそう言うと
老中達へ手ずから配った。
越前の帰りが遅く家宣のように
もう越前が帰ってこないかもしれないと
不安に大騒ぎして老中達を心配させたことを
幼いながらも家継は申し訳なく思っていた。
御饅頭配りは将軍家継の精一杯の罪滅ぼし。
「忝うございまする」
大老 井伊のじいは家継の抱える三方から
恭しく饅頭をひとつ取った。
幼将軍の家臣思いの優しさと思慮深さに
涙ぐむ。
将軍手ずから下賜される栄誉の意味を
家継は理解している。
家継は老中達に配り終わると
越前に饅頭の載った三方を
「みんなにあげて」と、預け
将軍定位置の御上段に上がり座った。
小姓から高坏に盛られた饅頭を
差し出されると家継はひとつ摘み嬉しそうに
はにかみながら食べる。
居並ぶ老中達や小姓達もみな一様に
家継の愛らしさ優しさ将軍らしさに感激。
越前と中務大輔も御上段の家継に
家宣を重ねて感無量で目が赤い。
寄る年波で涙脆い相模守は
咽び泣きながら饅頭を噛み締めている。
そして大量に残った饅頭は
騒ぎを知る者達に配られた。
思いがけず大騒動だった一日が終わり
越前が自室に下がると
主の帰りを待っていた部屋方が畏まり報告。
「殿様、夕刻に上様と一位様から
お花を賜りました。御休息之間の
御庭のお花とのことにございます」
「なんと、畏れ多い」
越前は驚いたが
納得したように贈られた花の側に寄った。
小さな花瓶に活けられた花は
菫や桜草の淡い色合いの小花。
越前は懐かしそうに愛しそうに
花を見つめる。
その後、越前はまた家継のことで
相談に乗ってほしいと
月光院の私室に呼び出されたが
危機感を覚えた越前は
理由を付け行かなくなった。
主君家宣と家継の名誉を
傷つける訳にはいかない。
あの日以降月光院の相談は
熙子や豊原のいる
御休息之間で受けるようにした。
だが既に月光院と越前の妙な噂が
大奥に流れていて
熙子付きの御年寄の花浦が呆れ顔で報告。
「越前殿の事を禄に知りもしない口さがない
女中達の間で、月光院様と越前殿が
深い仲などと噂になっているそうに
ございまする」
熙子は、はんなりと微笑む。
「ほほ、それは困ったことね。
でも越前は文昭院様に劣らぬ堅物。
文昭院様は仕事で側室を置いたけれど
夜伽は御苦労なさったのよ?
越前だってお園以外の女御を
受け入れるとは思えないわ。
それに、月光院はお園とは似ておらぬ」
熙子はそう言うものの
月光院に呆れていた。
心細いのだろうが
男性立入禁止の大奥の私室にあれ程頻繁に
越前を呼べば噂になるのは当たり前。
将軍生母たるもの誤解を生むような
軽はずみな行動はしてはならないのに。
堅物の越前に間違いなどあるはずもなく
熙子や老中達のように
越前を良く知る者達にとっては
ただの戯れ言だけど。
越前は長年家宣の側に詰めていて
自宅には妻も側室もいない。
だから家宣と越前が深い仲という
噂がたったこともある。
熙子と三人で笑い飛ばしたが。
熙子は花浦から渡された
大きく華やかな薄紅色の芍薬を生けながら
月光院のことを考える。
月光院は何時も深く考えずに行動する。
この月光院の浅はかさが
後に取り返しのつかない悲劇を起こす。
熙子がぼんやり考えながら花を活けていると
庭に面した入側を走ってくる音が聞こえる。
「母上ー、お花摘もう!」
家継が熙子の御殿に入ってくるなり
そう言って熙子の手を引っ張った。
「まぁ、上様ったら」
前触れなく熙子の部屋を訪れるのも
父の家宣譲りである。
「この間、越前にあげた小さくて可愛いお花
また越前にあげたい。
越前とっても喜んでたの」
家継は熙子を見上げて
可愛いくおねだりする。
「はい、上様。
では御庭に参りましょう」
熙子と家継は手を繋いで
御休息之間の庭の花壇に向かう。
淡い紅色の桜草
黄色い菜の花
濃い紫や薄紫の菫
咲き誇る色鮮やかな花々の中に
美しい幼将軍は溶け込み
輝く光の中のその美しさ愛らしさに
熙子も女中達も見蕩れ癒やされる。
家継が越前のために桜草や菫を
庭師に指示して摘ませ
受け取り愛でてから
熙子が持つ花籠に入れていく。
「母上、籠がいっぱいになっちゃった」
「それでは部屋に戻って
花瓶に活けましょうね」
「はぁい、母上今日のおやつはなぁに?」
ちゃっかり
おやつもねだる可愛い将軍である。
「ふわふわの御団子ですよ」
「わぁい」
熙子の御殿に戻りおやつを楽しむと
家継は熙子の膝に甘えた。
家継は熙子の香りが好き。
膝に座ると優しい良い匂いがして
抱きついて甘えても
くしゃみで熙子の綺麗な着物を汚しても
にこにこして可愛がってくれる。
家継が熙子の膝を独占したので
熙子の代わりに御中臈が摘んだ花を花瓶に
活けそれを見ながら
熙子は家継に優しく語りかける。
「桜草や菫は
越前の正室が好きな花だったのです。
お園という名で
桜草のように可憐な娘でした。
お園は残念ながら結婚して間もなく
儚くなってしまいました」
「父上みたいにお空に行っちゃったの?」
「はい。越前はとても悲しんだのですよ。
それから、お園は文昭院様の従兄妹。
上様とお園は血縁ですし
ゆえに、上様と越前は親戚なのです」
越前は自分と越前が親戚で
ただの主君と家臣ではないと聞かされ
嬉しさと安心感を覚えたが
同事に越前を可哀相に思った。
家継は父を亡くしているから
越前の寂しさ悲しさがわかる。
「母上、また越前にお花あげたい」
「誠に上様はお優しくあらしゃいます。
きっと、越前もお園も喜びましょう」
幼いのに家継は既に仁の心を持つ将軍。
徳川は良き将軍を得た。
家宣や法心院や蓮浄院の悲しみ
家臣達の苦労が報われたのだ。
熙子は家継の聡さと優しさに
胸が熱くなり涙ぐむと家継は可愛い手で
熙子の肩を撫でてくれる。
その優しさに嬉し涙が溢れる熙子だった。
その日の夕刻、再び越前の部屋に
花が届けられた。
越前はお園の位牌に
桜草の花瓶を供え手を合わせる。
あの日、月光院の予期せぬ振る舞いは
嫌悪感と虚しさの薄い霧となって
越前に纏わり絡みついた。
越前の愛妻お園は
あの様に振る舞ったことなどない。
越前の仕事の邪魔をせぬよう
優しい気遣いで包んでくれた。
野に咲く桜草の如く
可憐で内気でいじらしくて
そんなお園が越前は未だに愛しい。
越前はお園が無性に恋しくなり
代参の折の帰りにお園の墓参りに行き
少々遅くなったのだ。
まさか家継があれほど大騒ぎしていたとは。
越前はふっと微笑むと
懐からお園の髪を納めた守袋を取り出し
見つめる。
その夜、熙子の寝室で何時ものように
透明になった家宣が熙子を胸に抱き
感慨深く語りかけた。
『家継は良い将軍になった』
「誠に。わたくし嬉しくてなりませぬ」
熙子は家継の聡さを思い出して
また涙ぐむ。
家宣は愛おしくてならないと
熙子の涙を指で拭うと頬擦りをして囁く。
『そなたは、すぐ泣くゆえ。
しかし、お園を亡くした時の
越前は不憫であった』
「越前は痛ましゅうございました。
元より忠義者ですが
あれから文昭院様の御側を片時も離れず
仕えるようになりましたもの。
屋敷に帰るとお園を思い出して
辛かったのでしょう」
『それを知らぬとはいえ
月光院にも困ったものだ』
そう言うと
家宣は熙子の顔を甘く見つめた。
「?文昭院様、わたくしの顔に何か
ついておりますの?」
熙子が目を丸くして見つめ返す。
『世と越前の女の好みが違って良かった。
越前がそなたの側にいても安心だからな』
「まぁ、そのようにお考えでしたの?」
『知っておろう。世は嫉妬深いのだ』
家宣は微笑み熙子の髪を撫でると
優しく体を横たえた。
家継はくれ好きだったそうです
身の回りにある鼻紙などを
周囲の者達にあげていたのだとか
熙子はそれを越前から聞いたのか
家継に鼻紙袋を一箱と一重の着物などを贈っています
家継は箱から巾着を取り出し
御三家の殿様達に手ずから巾着をあげたと
徳川実紀に記されています
この巾着はきっと熙子が贈った鼻紙袋一箱に入っていた鼻紙袋だったのだろうと
ほのぼのエピソードにふふっとしてしまいました
熙子が鼻紙袋を贈ったとき
月光院はお人形一台と越後縮などを贈っています
熙子の父が家継に人形一台を
贈ったことがあるので
月光院はそれに倣ったのかもしれませんが
幼児がマイブームの配りまくりの時期に
人形一台…
このあたりの資料から月光院は子育て不得意だったのだろうと推測
熙子は家継を産んだ訳ではありませんが
母として家継をとても理解していると思いました
御台所熙子は大奥の優秀な総監督といえます
ちなみに鼻紙袋はあっという間に配り終わったらしく蓮浄院が内々のお返しとして
鼻紙袋二十と人形一台を家継に贈っています
熙子と蓮浄院は仲良く情報交換をしていたのだろうということと
蓮浄院の温かい人柄と空気を読む賢さと
社交性の高さが窺われます
熙子と月光院の両方の顔を立て足りない物を補うナイスフォロー
家宣生前時は蓮浄院は側室二番手でしたが
家継が将軍就任したので席次は熙子、月光院、法心院、蓮浄院となっており
蓮浄院は側室末席になっていたのですが
自身の置かれた立場を理解し期待されている役割を果たしていた賢い女性です