留守
江島事件による
大奥と表の空気の変化を
幼い将軍家継は感じ取っていた。
御鈴廊下の御錠口を渡る時
「ここに」と、言い置き
女中達が中奥に付いて来るのを許さなくなり
夕餉も中奥で摂るように。
今日、御錠口の向こうには
珍しく越前と対をなす側用人
若い本多中務大輔が
家継を迎えに来ている。
越前は家宣の菩提寺の芝増上寺に
家継の代参で不在。
家継が御錠口の手前で
見送る熙子や月光院達を振り返る。
「上様、ごきげんよう。
どうぞ、しっかりお勤め遊ばしませ」
熙子は畳敷きの華麗な廊下に座り
家継を見上げ微笑み
優しく声をかけ送り出す。
家継は幼くも将軍らしく頷くと
御錠口を越え中奥へ歩いて行った。
その姿はどこか家宣に似ていて
熙子は胸が熱い。
ところが
昼餉が終わった頃
中奥から援助要請があった。
代参は昼前に帰城する筈なのだが
午後を過ぎても
越前は帰っていないという。
熙子達が御錠口へ迎えに行くと
家継が寂しそうに熙子に駆け寄り抱きつく。
「母上、お勉強終わったから
えちが戻るまで遊んで」
「まぁ、上様ったら。
それでは越前が戻るまで
御庭のお花を見に行きましょう」
熙子は家継の手を引いて
長い御鈴廊下を御休息之間に向かう。
家継の小さな手から
熙子の手に家継の心細さが伝わる。
父の家宣を亡くし
越前を父のように慕う家継は
越前も帰ってこなかったらどうしようと
不安なのだ。
熙子は家継が不憫でならない。
御休息之間に着くと
熙子と家継は早速
簀の子縁の階から庭に降りた。
庭の大きな花壇には菫や水仙、薔薇など
色とりどりの花が咲き乱れ
美しい幼児の家継は花々と戯れる。
家宣に似て花が大好きな家継は
ひとつひとつ楽しそうに
目を綺羅綺羅させて眺めている。
その愛らしこと。
「母上、菫の花に
てんとう虫がいるの」
家継が嬉しそうに熙子の手を引いて
自慢気に、てんとう虫を見せる。
淡い黄色の菫の花弁で
赤いてんとう虫が日向ぼっこをしていた。
熙子と家継は並んでかがみ
一緒にてんとう虫を愛でる。
この何気ない一時に
熙子は幸せに包まれる。
家宣の子である家継は
紛れもなく熙子の子。
家継を産んでくれた月光院には
感謝している。
その人となりを不安に思うけれど。
一頻り花を楽しみ
家継と熙子が御休息之間に戻ると
月光院が控えて待っていた。
御菓子やお茶の用意も
整えられている。
「まぁ、美味しそうな花林糖。
月光院が用意してくれたのですね。
上様、わたくしは手を清めに
一旦部屋に戻ります。
でも直ぐ参りますから安心遊ばせ。
月光院、宜しゅうに」
「畏まりました」
「母上、早く戻って来てね」
家継は少し心細そうだけれど
熙子は家継と月光院の
水入らずの時間を楽しんで欲しかった。
家継を独り占めするのも気が引ける。
家宣から仕えてくれている
将軍付上臈御年寄の豊原がいるので
大丈夫だろうと思い
家継に微笑むと大御台所御殿に向かった。
御中臈が葵の紋の漆塗りの盥を
家継の前に置く。
家継がその小さな手を
盥のぬるま湯に浸けると
乳母が優しく洗い
真新しい手拭いで拭く。
すると直ぐに
月光院が高坏に盛られた
艶やかな花林糖を家継に勧めた。
「上様、わたくしの好物の
花林糖でございます。
たんと召し上がられませ」
月光院は江戸っ子らしく
濃いはっきりとした味が好み。
家継は初めて見る花林糖が珍しく
嬉しそうにひとつ摘まんで口に入れたが
まだ幼い家継には花林糖は硬く
油っぽく感じて一瞬、顔を顰めてしまった。
遊んだ後でまだ白湯も飲んでおらず
喉も渇いていて
黒糖と粉が口の中の水分を奪った。
月光院は自分の好物を一緒に味わい
家継にも気に入って欲しかったのに
意外な反応にむっとして家継を見た。
良くも悪くも江戸っ子の率直な気風と
血を分けた母ゆえの遠慮がない月光院。
家継は家宣にも熙子にも
そんな顔で見られた事がなく
戸惑い、俯いた。
月光院は家継を可愛がろうと
頑張っているのに
上手くいかずに不機嫌になった。
どうして何時もこうなるの?
甘い御菓子が好きなはず…
息子だというのに
何が好きなのかちっとも分からない
私は花も庭も興味ないのに
そこに部屋で身を整えた熙子が
水入らずの頃合を測り戻ってきた。
熙子は家継をひと目見るなり
異変に気付く。
綺麗なままの白湯の茶碗と
一口囓った花林糖
沈んだ家継。
僅かな時間で
御休息之間の空気は一変していて
豊原も熙子に目配せした。
皮肉にも噛み合わない、家継と月光院。
熙子ははんなりと話す。
「上様、花林糖は
美味しゅうございましたでしょう。
さぁ、御白湯をどうぞ」
熙子は家継の隣に座ると
茶碗を取り手ずからゆっくり飲ませた。
体の弱い家継は
水分をたっぷり取らせないと
体調を崩してしまう。
家継は白湯を飲み一息ついて
ほっとすると
熙子の袖を掴んで訴えた。
「母上、えちを迎えにいきたい」
熙子は家継の不安を静めるべく
背中を撫でる。
「そうですね。
越前は、そろそろ戻るでしょう。
豊原、上様が中奥にお戻りに
なられるゆえ準備を。
上様、中奥へ参られる前に
もう少し御白湯を上がられませ」
白湯を飲ませ落ち着かせ
中奥へ戻る手配の時間を稼ぐ。
家継がゆっくり白湯を飲み終わる頃
中奥から受け入れの返事が届いた。
「上様、参りましょうね」
熙子が家継の手を引き
豊原達と連れ立って
部屋を出ようとするが
月光院は座ったまま動かない。
折角の努力が上手くいかずに
拗ねてしまった。
仕方なく月光院を置いて部屋を出る。
御錠口には
中務大輔が待っていた。
まだ越前は戻っていないらしい。
中奥に戻る家継のために
熙子は御菓子を中務大輔に渡した。
柔らかな白餡の御饅頭と金平糖で
家宣の好物でもあった。
家継は、体質も好みも
父の家宣に似ている。
「上様、御饅頭を召し上がる間に
越前が戻りますよ」
「はぁい、母上」
家継は中務大輔に手を引かれて
中奥に入って行った。
だがしかし、御饅頭を食べても
越前は戻ってこなかった。
「えちを迎えに行く!」
「しかし、上様が
家臣をお迎えに行かれるなど」
中務大輔が何とか宥めようとする。
「やだやだ、えちを迎えに行きたい!!!
玄関まで行く!」
滅多に我が儘を言わない家継が
頑として聞かない。
中務大輔が根負けして
抱き奉り表の玄関まで連れて行った。
「なか、おろせ」
「御意」
中務大輔は苦笑しながら
家継を畳敷きの入側に降ろすと側に控える。
家継の警護のため
玄関の回りにずらりと侍達が侍った。
門の向こう側を背伸びして見る家継は
余りにも可愛くて
侍達の顔が綻ぶ。
ほどなく
ゆっくりと人影が近づいてきた。
その影は
将軍自ら玄関にいると分かると
小走りに急ぐ。
家継はその人が待っていた人だと分かると
顔を輝かせ足袋のまま駆けだした。
「えち、おそいー!」
家継が越前に抱きついた。
越前も思いがけない出迎えに
嬉しさでいっぱいになり
家継を抱き上げ玄関に上がる。
「越前殿が遅いので
皆、大変だったのですよ」
中務大輔が苦笑しながら報告すると
越前も苦笑いで答えた。
「文昭院様の御法事のことで
話が長引いたのです。
上様、申し訳ございませぬ」
すっかり上機嫌の家継が
越前の首元に手を回して甘える。
「うん。
父上の御用事ね。
ねぇ、御菓子みんなで食べたい。
母上が御饅頭と金平糖くれたの」
「御父上様の好物にございますね。
相模守様も、御饅頭が好きなのですよ」
「さがみも?
井伊のじいにもあげたい」
「はは、そんなにたくさん
御饅頭があるのでしょうか?」
家継一行は賑やかに
松の廊下を抜け中奥に戻っていった。
家継が大騒ぎして疲れたであろう近習達に
熙子から慰労の大量の饅頭と金平糖が
中奥に届けられていた。




