霧
江島が高遠に向かった
桜の咲く頃。
大奥の将軍居室の御休息之間では
中奥から戻ってきた家継を囲み
熙子達と越前が団欒の一時を楽しんでいた。
江島事件の後、幼い家継のために
大奥では以前と変わらない穏やかな空気を
保とうと努力中。
熙子がいつものように上段の間で
家継を膝に抱いて中奥での出来事を聞く。
「上様、今日は如何でしたか」
「きょうはねー
白石が黄色い鶴にのった
仙人のおじいさんの
おはなしをしてくれたの。
母上、世も黄色い鶴にのって
お空を飛んでみたい」
家継は熙子の顔を見上げて
楽しそうに話した。
熙子もそんな家継が可愛くて仕方ない。
「ほほ。それでは仙人になられますか?
上様は将軍であらしゃいますから
大層長生き遊ばして大御所様になられた後
仙人におなり遊ばしませ」
「はぁい」
聞き分け良い家継に熙子は微笑みかけ
家継のために漢詩をゆっくりと口遊む。
「故人西のかた
黄鶴楼を辞し
煙花三月
揚州に下る
孤帆の遠影
碧空に尽き
唯だ 見る長江の
天際に流るるを」
熙子は年子の弟と一緒に
摂関家の教育を受けて育った。
家継にもその教育をしている。
越前が懐かしそうに家継に説明する。
「唐の李白の詩でございますね。
上様、この漢詩は
黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る
と申しまして
黄色い鶴の名の楼から
舟で旅する友を見送る詩なのです」
家継と熙子の会話は
越前に在りし日の主君 家宣と
熙子の会話を思い出させた。
法心院や蓮浄院や控えている女中達も
懐かしそうに微笑み合っている。
だが、月光院は浮かない表情。
町娘で踊り子だった月光院は
家宣と熙子との会話に付いていけず
家継にも教養ある話を
あまりしてあげられない。
家継が生まれてから
学問の努力をしているものの
僅か数年で追いつける筈もなく。
それに大奥の視線は月光院に冷たかった。
事件後、右腕だった御年寄の江島達が
追放された代わりに
公家の姫達が上級女中として付けられた。
将軍生母となり朝廷より従三位を賜ったので
熙子に準じた形だが、それは体の良い口実で
実際は、監視を兼ねていた。
わざわざ将軍付上臈御年寄 豊原の
姪を小上臈として月光院に付けたほど。
月光院は御休息之間や自室でも
孤立を深めている。
その孤独に耐える冷たい心に
越前の手の温もりが浮かんだ。
吹上の茶屋から降りる月光院に
差し出された越前の手の温もり。
目の前に越前がいる。
将軍綱吉が子に恵まれず甥の家宣が
次の将軍世継候補濃厚となり
綱吉側室のお伝の方推挙により
月光院は側室候補として江島と共に
家宣の甲府宰相時代の櫻田御殿に出仕した。
知り合いもいない心細い櫻田御殿で
家宣の影のように付き従う越前は
月光院をいつも気に掛けてくれていた。
勿論、月光院だけでなく他の側室候補の
法心院と蓮浄院にも公平にだったけれど。
月光院は生家淺草では
浅草小町と言われるほど美しいと評判で
家宣など瞬く間に虜に出来ると
自信があった。
それに雇用主のお伝の方や
その庇護者の綱吉生母桂昌院と父の元哲から家宣の寵愛を独占するようにと
多大な期待を寄せられていた。
まだ将軍世継が確定していない家宣は
最愛の妻熙子だけを愛して
側室候補達には目もくれなかった。
月光院の自信は儚く崩れ去り
お伝の方や父の元哲の期待だけが
重くのしかかった。
思い通りにならない月光院の辛い日々の中
越前は優しく気に掛けて面倒を見てくれ
そんな優しく有能な美しい越前に
月光院は何時しか惹かれていた。
江島達がいない今
月光院が頼れるのは越前だけだった。
大奥での権力の維持のためにも
越前の力が不可欠。
月光院は自室に越前を呼び
何かにつけて相談していた。
長年恋い慕ってきた愛しい越前を。
家継の学問や武芸の進め方
中奥での様子
聞きたいことは山ほどある。
月光院の父 元哲は加賀藩を抜け
浅草の僧侶となったので
武家の男子の育て方を知らない。
ましてや、家継は将軍。
月光院は部屋を訪れた越前に問いかける。
「越前殿、上様はどのように中奥で
学んでおられるのですか?」
或る日は
月光院自身の学問について相談。
「わらわも将軍生母に相応しい教養を
身につけたいのです」
越前はその度に身を正して誠実に答えた。
月光院は越前のその優しさに
想いを募らせていった。
でも実直で堅物の越前は
要件が済むと直ぐに中奥に戻ってしまう。
「それでは、月光院様
中奥で上様がお待ちですので
此にて失礼を」
「越前殿、そう言わずにもう少しここにいて
寂しい尼の話し相手になってください。
庭でも見ながら」
まだ若く美しい尼姿の月光院は
そう言うと立ち上がり
簀の子縁まで歩き出した。
越前を引き留めたい
もう少し一緒に居たい。
月光院の思いつきに
女中達が急いで縁側に茵を誂える。
気の利く越前はゆったりと
でも機敏な身のこなしで
簀の子縁に降りる月光院の手を取り支えた。
吹上の茶屋の時のように月光院の手と心に
越前の手の温もりが染みていく。
しかし、越前は内心困っていた。
やれやれ
急いで中奥に戻らなければならぬのに。
打合せや書類の確認もあるし
もう直ぐ上様の夕餉の時間。
上様が待っておられる。
頭の良い越前は表情には出さずに
月光院の話に付き合う。
「越前殿の御屋敷はどちら?」
「馬場先御門の側にございまする」
越前への他愛ない私的な質問が続くが
昼夜将軍一筋に仕える越前に趣味などなく
会話は途切れ途切れ。
余計な事は一切話さない越前。
やがて小さな庭に日が傾き
冷たい風が吹いた。
越前はこの機会を逃さなかった。
月光院に、にっこりと微笑む。
「月光院様、日中は暖かくなりましたが
宵は冷えまする。
お身体に触らぬよう
お部屋に参りましょう」
越前は茵から降り片膝に立ち
月光院を促した。
礼儀として部屋に上がる段差を前に
越前は手を差し出す。
月光院は越前の手に自らの手を預けた。
段差を上がるとき
月光院は微かに体を越前に寄せ
甘く上目遣い。
月光院の纏う錦の打掛の
衣擦れの音が越前に絡み付く。
越前は気づかない振りをして
部屋に上がると
丁寧に退出の言葉を述べ中奥へ急いだ。
家継は首を長くして
越前を待っているだろうから
気が気では無かった。
中奥へ戻る長い廊下を急ぎながら
越前は、家宣がなぜ月光院を
警戒していたか理解した。
熙子や法心院達には有り得ない振る舞い。
今まで越前は
月光院を気の毒に思うところもあったが
そんな同情は霧のように消え失せた。
月光院の空恐ろしい正体を垣間見る。
江島の末路が腑に落ちると言うもの。
気付けば越前は
大奥と中奥を繋ぐ御錠口の前にいた。
越前は家継を守る覚悟を抱いて
御錠口を越えた。
越前が帰った後も
月光院は越前の余韻の中にいた。
甘い空気の余韻の中に。
越前は優しく美しい。
家継を産んだときも
越前が親身に世話をしてくれて心強かった。
月光院は美貌を褒め讃えられながらも
誰かに愛されたり愛し合った事が無い。
家宣に愛されなかった
淋しさ悔しさも癒えていない。
将軍生母という
稀有な立場になったけれど
女として愛される幸せを知らない。
越前の優しさが月光院を甘く包んだ。
熙子は夕餉のあと簀の子縁に座を設け
白い光を放つ月を愛でていた。
『熙子、今宵も月が美しいな』
『誠に、美しゅうございますこと』
熙子は透明な家宣の腕の中に体を預け
うっとりと月を眺める。
家宣はそんな熙子が愛おしい。
家宣十七歳
熙子十三歳で
結婚した新婚の頃から月の美しい夜は
家宣は熙子を腕に抱いて月を愛でた。
熙子の産んだ豊姫と夢月院を偲んで
櫻田御殿の庭に輝く月を見たあの日々も
思い出しながら。
腕の中の熙子と愛でる月の光は
ことさら美しく家宣の目に映った。
月光院は
間部越前守と吉宗と噂になっています
吉宗は継室に望んだ竹姫とも
噂になっていますね
家宣と家継には
越前と中務大輔という二人の側用人がいました
月光院と年齢の釣り合う中務大輔と
噂がなかったのが歴史の面白いところです
月光院は車玉集を残しています
冷泉為村が和歌の指導していますが
熙子が没した後に指導を受け始めた
ようなのです
なので生前の熙子と越前が斡旋したという
エピソードを除きました
京風を嫌っておきながら
熙子が世を去ったあと
京に和歌の師匠を求める月光院
家宣亡き後
熙子や越前はさぞ苦労したことでしょう