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雨の音が響く部屋で透明な家宣が

涙を拭い御台所の顔になった熙子に問う。


(次の将軍は誰が良いと思う?)


熙子は美しい眉根を微かに寄せて答えた。


(家格で申し上げれば

 尾張の継友殿でございますが

 まだ若く、藩主になったばかりで

 実績もなく、子もおりませぬ。

 万が一のことがあれば

 また将軍空位の危機にございます。


 長序で申し上げれば

 水戸の綱條(つなえだ)殿ですが

 文昭院様よりも年上で

 在位は長くありませぬでしょうし

 水戸藩の運営も芳しくありませぬ。

 

 紀州の吉宗殿は

 御年三十三でお健やか

 長男の長福(ながとみ)丸君と

 次男の小次郎君がおられ

 僅か十年で

 紀伊藩の財政を建て直したとのこと。

 次の将軍は、この御方しか務まりませぬ。

 文昭院様が果たせなかった

 幕府の財政再建を成してくれましょう)


家宣が頷く。


(世と同じ考えであるな。

 流石、近衛太閤の姫。我が妻よ。

 しかし、白石と越前は

 継友を推すようだが)


(それは、かつて文昭院様が

 継友殿の兄の吉通殿を御自身の次の将軍に

 推したからでございましょう。

 それに白石と越前がわたくしのために

 姪の安己(あこ)君を継友殿の婚約者に

 推したのです。

 継友殿と近衛に

 気を遣ってくれているのでしょう)


(そうか。

 では老中達を納得させ、纏めねばならぬ。

 明朝、尾張 水戸 紀伊を登城させよ。

 吉宗は抜かりなく見事であろうぞ)


(御意にございまする)


熙子は居ずまいを正すと仏間を出て

御年寄の花浦に越前を呼ぶよう伝えた。



人払いした御対面所の越前は憔悴していて

その(やつ)れた影が

越前の美しさに色気を漂わせている。


熙子が大御台所として越前に告げる。


「誠に無念だけれど

 上様の御養子を決めねばなりません。

 明朝、御三家当主を登城させるように」


越前は(くう)を見る目を見開いた後

観念したように目を閉じ声を絞り出した。


「御意」


家継を命懸けで支えてきた

越前の心中を思うと辛い。

でも、伝えなくてはならない。


「越前は文昭院様に気づいているでしょう?

 文昭院様の思し召しは、吉宗殿。

 辛いであろうが

 よしなに取り計らってたもれ」


越前は驚きを隠さず熙子に詰め寄る。


「一位様には、継友様が宜しいのでは?

 姪御様が御台所に成られれば

 一位様と近衛家は盤石でございます。

 良いのでございますか?」


「この国と民にとって、良い将軍は誰か。

 文昭院様の思し召しと同じ理由で

 わたくしは吉宗殿を推しまする。

 近衛とわたくしへの

 其方(そなた)と白石の心、有難たく思う」


熙子の大御台所としての言葉に

越前は胸を打たれた。

熙子の国母としての自覚と

国家を思う愛情の深さこそ家宣が一途に熙子だけを愛し続ける理由だろうと。

家宣と熙子はこの国のために共に歩んできた夫婦。


 あぁ、この御方こそ

 文昭院様の御台所で上様の御母上様…


越前は家宣の家臣であれて幸せと

万感の思いで中奥に戻り

老中達に熙子が紀州吉宗を推挙と伝えた。


「なんと…一位様が…

 女性(にょしょう)が将軍の指名とは

 前代未聞にございまする」


驚愕して意義を唱える老中達を

越前が説得する。


「上様の御容態、もう猶予がございませぬ。

 明朝の御三家の登城で御判断を」



熙子、月光院、越前、白石、老中達…

今にも命の消えそうな家継を

見守りながら夜が明けるのを待つ。


将軍の健康状態は

幕府の機密(トップシークレット)だが

情報を武器とする紀州の吉宗は

家継の危篤を察していた。


急な登城命令にも関わらず

家老二人を連れ

重厚な供揃えの大名行列で一番に登城。


水戸の綱條は通常の供揃えで二番目に登城。


尾張の継友は

先代の家臣団に受け入れられておらず

登城の準備もして貰えず

継友は痺れを切らし馬を駆って

近習数名が追う有様で

大きく遅れ三番目の登城となった。


老中達も次の将軍は吉宗と

決断するしかなかった。


だが、当の吉宗が辞退した。


家格では尾張

年齢では水戸が相応しいと。


時は一刻を争う。


困り果てた越前と老中達は

熙子に判断を仰いだ。


「わたくしが直に

 吉宗殿を説得いたしましょう。

 大奥へ呼んでたもれ」


間部越前守と土屋相模守に伴われ

中奥から御鈴廊下を通り

吉宗は御対面所に案内され熙子と対面。


上段から見る吉宗は

家宣と父の近衛太閤から聞いていたように

六尺(ひゃくはちじゅう)の長身と浅黒い肌に

精悍な眼差しの堂々たる武人。


真っ直ぐに熙子を見ている。


吉宗は数年前から将軍就任の機会に備え

熙子の父 近衛太閤にも働きかけていたと

京からの文で知らされていた。


抜かりなく見事であろうぞ…


家宣の言葉通り

見事な処世術と胆力を持つ男。


熙子は、吉宗に徳川を(ゆだ)ねる。


「吉宗殿、文昭院様の御遺命ゆえ

 御辞退は許されませぬ。

 受け取ってたもれ。近う」


従一位の大御台所から

先の将軍の命令と言われては

吉宗は断れない。


断れない形を吉宗は作ったのだ。


吉宗が、(うやうや)しく膝でにじり寄る。


花浦の掲げる三方から

熙子が優雅な仕草で熨斗鮑(のしあわび)を手に取る。


「もっと近う」


優しく声をかける。


「はっ」


上段の際まで吉宗がにじり寄る。


「これを」


熙子の白くしなやかな手が

熨斗を吉宗に与える。


ここに、次期将軍が決まった。


「天下万民と徳川を宜しゅうに。

 それから、越前は文昭院様と上様に

 大層尽くしてくれたゆえ

 呉々(くれぐれ)もよしなに頼みまする」


越前の目が赤い。


綱吉の側用人 柳沢吉保を

家宣が遠ざけたように

吉宗もまた、越前を遠ざけるだろう。


でも、せめて言葉だけでも

取りなしてやりたかった。


熙子から越前への、精一杯の(ねぎら)い。


熙子は立ち上がり

その場を越前と相模守に託し

開けられた障子に静々と向かう。


吉宗は赤坂の紀州藩邸に戻ることなく

江戸城二の丸に入った。


熙子は家継の枕元に急ぐ。

少しでも長く側にいてやりたい。


熙子は長い御鈴廊下を通り

中奥の御休息之間の

絹の柔らかな布団に横たわる

家継の元に戻った。


家継の頬を両手でそっと触れる。

まだ息がある。


「上様、

 御後見は紀伊の吉宗殿に決まりました。

 御安心遊ばせ」


熙子が優しく告げ

家継の小さな手を袖で包むと

微かに可愛い口元が微笑んだ。


吉宗を二の丸に送り出した後

越前と相模守も

家継の側に馳せ参じる。


家宣を見送り僅か三年で

家継をも見送ることになろうとは。


越前と白石、老中達や近習達が

無念と涙を滲ませ

月光院は泣いて取り乱し、家継の体に縋り

法心院と蓮浄院は

手を取り合うかのように寄り添い

家継を見守る。


夕刻

幼き将軍の家継は

静かに空に戻って行った。



次の日、江戸城にて

吉宗の事実上の将軍就任が告知された。


吉宗は、財政難に喘ぐ幕府を救うべく

直ぐさま改革に乗り出す。


家継の霊廟を飾る

金銀宝石の装飾品を贅沢と言い

質素に作り直させた。


「前将軍になんと無体な…」


知らされた月光院は

衝撃を受け抗議したが

吉宗は涼しい顔で無視。


家宣が造った

朝廷との融和策の象徴の四足門も壊した。


家宣と近衛太閤

白石の努力を無に帰されたが

今の将軍は吉宗。


熙子は静かに見守る。


吉宗の予算削減改革は

大奥にも及び五十人もの美女を

嫁ぎ先に困らないからと暇を出したが


吉宗を指名した大御台所の熙子に

一万一千百両と米千俵


先代将軍生母の月光院に

八千六百両と米千百三十俵を


毎年の報酬として与えた。


吉宗の正室は既に亡く

長男の長福丸は二の丸に

次男の小次郎と側室二人が大奥に入る。

吉宗の側室と侍女達のあまりの質素さに

大奥の女中達は驚き囁き合った。


その年の秋

吹上御庭の西の馬場跡に御殿を建て

大奥で孤立している月光院を住まわせた。


大奥で問題を起こすのは月光院だけと

吉宗は知っており、早々と隔離。


二の丸でも三の丸でもなく

北の丸でも竹橋でもなく

華やかさを失い

人気(ひとけ)のない吹上御庭の西の隅で

月光院はその後三十余年を送ることとなる。


法心院もまた、御濱御殿に移った。


熙子と蓮浄院は

しばらく大奥に残っていたが


法心院と蓮浄院

綱吉側室の寿光院と養女の竹姫が

越前の屋敷跡に建てた御用屋敷へ移る。


新築の屋敷の木と畳の香りに包まれ

法心院と蓮浄院がお茶を飲みながら

しみじみ思い出を語らう。


「文昭院様と一位様

 鴛鴦(おしどり)夫婦でしたわね」


庭の松の枝に二羽の雀が

戯れているのを見ながら法心院が呟くと

蓮浄院が長年胸にあった思いを吐露。


「月光院様が痛々しくて

 見ていられませんでした」


「誠に。わたくし、文昭院様に妻として

 愛されたいなど

 砂粒ほども思えませんでしたのに」


「わたくしも」


「やっぱり?」


「文昭院様が一位様に夢中すぎて…

 あれでは無理ですわよ」


「月光院様も

 早くお気付きになられたら楽だったのに」


「無茶にも程がありましたわね」


「誠に」


二人は目を合わせ

袖で口元を覆い微笑み合った。


「蓮浄院様とは長いご縁に

 なりそうですわね」


「法心院様…ええ、末長く御一緒に」


法心院と蓮浄院、寿光院は

馬場先御用屋敷から濱御殿へと

仲睦まじく長く寄り添い

熙子が後見人となり世話をした。



丁度その頃

本丸大奥に独り残った熙子の御殿。


熙子がいつものように

御簾を上げて

透明な家宣と熙子の褥を二つ並べ

壮麗な庭を楽しんでいると

新将軍の吉宗が

庭の入り側から声を掛けてきた。


「一位様には、御機嫌麗しゅう」


「これは上様、御機嫌よう」


熙子がはんなりと吉宗を迎える。


正室を早くに亡くした吉宗は

新体制が落ち着くまで

引き続き熙子に大奥の統率を願った。


吉宗が御台所御殿の庭を一望すると

感嘆の声を漏らす。


「これは、聞きしに勝る

 見事な御庭でございまするな」


「ほほ…」


熙子は口元を檜扇で隠しながら

鈴を鳴らすように笑うと視線を庭に移した。


「上様にお褒め頂き

 文昭院様も御鼻が高うございましょう。

 外出のままならない御台所達の

 せめてもの慰めにとの御心。

 そして、庭は実験場なのです。

 饗応の着想と訓練場であり

 財政再建の一策に果樹や植木の殖産

 白石の発案で国内の金銀の流出を防ぐため

 薬草等の国産化を、と」


吉宗は、熙子の隣の空の褥を見つめる。


「左様にございまするか。

 文昭院様はそのように深いお考えで

 あられましたか」


熙子は檜扇を膝に置くと

吉宗を見上げた。


「上様…どうか文昭院様が

 果たせなかった幕府再建の夢を

 上様が果たしてくださりませね」


「一位様…必ずや果たして見せまする。

 文昭院様と家継公の御為にも」


熙子と吉宗は

満開の梅の花が零れる庭を

遥か未来を見る。



それから熙子は吉宗の許可を貰い

吹上御庭を訪れた。


家宣が架けた紅に塗られた橋の上から

雲海のように広がる

満開の梅の花々を見渡す。


熙子が橋から落ちないようにと

心配性で透明な家宣が

熙子の肩を抱き語りかける。


(紀州の梅は零れんばかりに咲いたな)


(誠に。

 上様が日の本の国を

 この梅の雲海のように

 美しゅうしてくださいますわ。

 わたくしも肩の荷がおりました)


うっとりと見蕩れる熙子に

家宣は苦笑しながら囁く。


其方(そなた)は、これからも忙しいのだぞ

 未来の将軍の長福丸を育てるのだから)


熙子は意外そうに

でも淋しげに家宣を見上げる。


(そうでございますの?

 長福丸君の御世話は嬉しゅうございますが…

 やっと文昭院様と同じ姿になれると…

 空の子供達に会えると

 楽しみにしておりましたのに…)


家宣は苦笑したまま

子供をあやすように優しく諭す。


(こうして永遠に傍におるゆえ。

 現世(うつしよ)泡沫(うたかた)

 長福丸の世話も

 空の子供達も楽しみにいていると良い。

 それに、来世は其方(そなた)に苦労させぬ。

 安心いたせ)


家宣は熙子を愛しそうに見つめると

秀でた額に接吻をして抱きしめた。


熙子は家宣の胸に顔を埋めた後

家宣を見上げ微笑む。


そして、二人は

再び梅花の雲海に魅入った。



御高覧頂き有難うございます。


櫻田御殿

北の方は宰相に溺愛される


熙子と家宣の新婚時代のお話です

宜しく御願いします


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