雨
花見の夜に崩れた家継の体調は
落ち着いたものの
体の芯から冷えたのが堪え
季節変わりの雨が体に障り咳が酷くなった。
熙子の桜の頃の
西の丸への引っ越しは延期に。
「母上、お引っ越しは?」
「上様がすっかり良くおなり遊ばしたら
西の丸に参りますね」
まだ母親に甘えたい年頃の
布団の上の家継の表情が明るくなった。
「ほんと?まだいてくれるの?
母上と遊べるのうれしい。
ねぇ、お話よんで」
「はい。今日は枕草子などは如何?
何も何も
小ちいさきものは、みなうつくし
雛の調度
蓮の浮葉のいと小さきを
池より取り上あげたる
葵のいと小さき」
将軍付上臈御年寄の豊原が微笑みながら
大きく深い伊万里の絵皿を
家継の枕元にそっと置いた。
熙子が庭で摘んだ小さな葵と蓮の葉と
躑躅の白と赤い花を水に浮かべた花手水。
「わぁ、かわいい」
「大きにはあらぬ
殿上童の
装束きたてられて歩くも、うつくし
上様の幼き将軍のお姿も
いと尊く美しゅうあらしゃいます。
それでは、上様のお好きな小さきを
母に教えてくださりませ」
家継は小さな手で頬杖をついて
可愛いらしく考え込む。
「母上と見た
お花の上のてんとう虫、可愛かった。
桜の花も桜草のお花も」
桜草と聞いて、越前の目が感動で赤くなり
熙子も涙ぐむ。
「覚えていてくれたのですね。
母は嬉しゅうございます。
上様、月光院も枕草子が好きなのですって。
こちらに参られたらお話なされませ」
「はぁい」
月光院の人柄が好きではないが
だからといって
生まれながらの雲上人である熙子は
私情を公に持ち込むことを嫌った。
それはそれ、と割り切っている。
家継にとって月光院は生母。
幕府のためにも
親子仲は円滑であって欲しい。
天井に浮かび見守る透明な家宣は
熙子の聡明さと優しさに惚れ直していた。
その後も家継の治らない風邪は
熙子を不安にさせた。
家宣は吹上で根津神社の神輿を上覧した後
風邪が悪化して死の床についた。
まさか…
熙子は不穏な予感を振り払うように
毎日、家継を見舞う。
「上様、寝ていなくては
お風邪が治りませんよ」
優しく家継に言い聞かせる。
熙子や越前が居ればおとなしいが
二人がいないと飽きて
布団から出て遊ぶようになり
近習や医師達を悩ませた。
近習達の困った時の必殺技
「越前殿が参られます」と言われると
家継は渋々、布団に戻る。
午前中は調子がいいものの
夕刻になると熱が下がらなくなり
やがて高熱と咳で床についたまま
危篤状態となった。
中奥の御休息之間に
熙子や月光院
老中達や御年寄達が勢揃いで
家継を見守る。
小さな体で苦しそうに熱に魘される家継が
熙子は可哀相で身を切られるように辛い。
代われるものなら代わってあげたい。
月光院は家継の枕元で
泣いて狼狽えるばかり。
「上様!お気をたしかに!
お願いでございます!目を覚まして!」
生来、体が丈夫な月光院は
夜に花見をしたくらいで
家継が風邪を引くとは思わなかったし
直ぐに治ると思っていた。
まさか命に関わるとは思いも寄らなかった。
見かねた熙子が
月光院の肩を支え優しく励ます。
「月光院、大丈夫ですよ。
上様はきっと良くなられます。
其方も辛いであろうが
母なのですから上様に心配させぬように。
少し休んで、また参りましょう」
取り乱す月光院を落ち着かせるため
熙子と豊原が付添い部屋に戻らせた。
熙子だって泣きたかった。
豊姫、夢月院、政姫、家千代
大五郎、幽夢、虎吉…
また我が子を見送るなど耐えられない。
熙子も部屋に戻り
家宣が死の床についた時のように
母の品宮が
京を離れる時に持たせてくれた仏像に祈る。
どうか上様が御快癒なされますよう
わたくしの命を差し上げますから
どうか…
熙子は自分の命など惜しくなかった。
ただ、可愛い家継が助かって欲しかった。
一心に祈っていると
透明な家宣が熙子を包むように抱きしめた。
(熙子、諦めよ)
家宣は熙子を
哀しく愛おしい目で見つめている。
(文昭院様…いいえ諦めません。
もう子供を…文昭院様の御子を…
上様を失いたくないのです!
わたくしを連れていってくださりませ!)
熙子は家宣を真っ直ぐに見つめ
必死に訴えた。
家宣は熙子を抱きしめ言い含める。
(家継は世の子。
長生きなどできぬ。
丈夫な其方が産んだ
豊姫と夢月院がそうであったように。
それに、あの月光院が母では
この国にとっても良い行く末とはならぬ。
江島を諫めもせず増長させ
将軍である家継の体調さえ軽視して
この惨状なのだぞ。
それは其方もわかっておろう)
心に蓋をして目を逸らせていた事を
家宣に指摘されてしまった。
熙子は家宣に包まれ
涙が枯れ果てるまで泣いた。
熙子が静まると家宣が威厳を放ち、告げる。
(次の将軍を決めねばならぬ。
熙子、世の御台所の其方しかできぬ。
時間がないぞ)
熙子が涙を拭う。
(はい…
跡取のない当主が亡くなれば、家は断絶。
上様に養子のないままでは
幕府の示しがつきませぬ。
徳川が終わってしまいまする)
雨の音が
部屋に響いた。




