吹上御庭
幼い鍋松が家宣の後を継ぎ
将軍家宣下を受け
落ち着いた頃。
幼将軍は中奥の政務とお勉強を終えて
大奥の将軍居室である御休息之間へ
御側用人の越前守に抱き奉られ帰って来た。
御休息之間には家継と嫡母の熙子
生母の月光院
家宣側室の法心院と蓮浄院
越前が揃い団欒の一時を楽しんでいる。
将軍代替わりの後は
前将軍の御台所や側室達は
本丸大奥から出るのが仕来りだが
家継が幼いので熙子達は全員本丸大奥に残り
家継を守り育てている。
二人の母と亡くなった兄弟の母二人が
父、家宣亡き後の家継の家族。
家宣生前の頃からの習慣で
家継は当然のように
大奥女主人の熙子の膝に座り甘えている。
「上様には
今日も賢くあらせられました」
公私共に献身的に仕える越前が
美しい顔を綻ばせながら
中奥での家継の様子を報告すると
大好きな越前に褒められてた家継は
自慢気に、はにかむ。
熙子もそんな家継の可愛い様子が嬉しくて
膝の上の家継の顔を
覗き込むように話しかけた。
「賢く遊ばされているのですから
上様に、ご褒美を差し上げましょう。
丁度、心地良い季節です。
吹上の御庭に御成なられませ。
まずは、月光院とご一緒に」
「おにわ?」
家継は嬉しそうに熙子の顔を見上げた。
「広い御庭で
たくさん駆けっこなどなされませ。
お花もたくさん咲いていますよ」
優しい気立ての法心院と蓮浄院も
にっこりと微笑み頷く。
「のびのびとお遊びになられれば
体にもようございまする」
「左様にございます」
大人達の勧めに家継は顔を輝かせて
熙子を再び見上げる。
「あそんでいいの?
ははうえ、はやくいきたい」
熙子は、家継の肩をそっと撫で
微笑みかける。
「まぁ、上様は待ちきれないのですね。
それでは越前、早速取り計らってたもれ。
月光院も宜しゅうに」
「はい…」
月光院の返事は少し心許ない。
急に広い吹上御庭で遊べと言われても
どうやって遊ばせていいのか戸惑う。
熙子はそんな月光院に気付き
安心するよう声を掛けた。
「大丈夫ですよ。
越前がついていますもの。ね、越前?」
「はっ、畏まりましてございまする」
越前も弾む声で答えた。
数日後の麗らかな春の午後。
瑞瑞しい緑の広い芝生の上で
家継は、はしゃぎながら走り回る。
小姓の田中と佐々木が
家継の遊び相手となり追いかけられ役を務め
それを月光院は側の茶屋で座って見守る。
家継の側の芝生の上で
見守る越前は嬉しくも静かに感動していた。
家宣と熙子の頻繁な吹上御庭の散策に
付き従っていた越前の日常は
家宣を失い、消えた。
だが今、目の前に家宣の忘れ形見の家継が
将軍として吹上に御成りなのだ。
主君家宣を失った越前の心の空虚を
幼い将軍家継は
その愛らしさで満たしてくれる。
家継の吹上御庭の初御成りは
越前にとって家宣の再来の喜び。
静かな喜びに浸り
見守っていた越前の膝元に
家継が息を弾ませ飛び込んで来た。
「えち、つかまえたー
かたぐるませよー」
「はは、上様
これは不意打ちにございましょう」
越前は笑いながら家継を抱き上げ
肩車をすると茶屋に向かう。
「そろそろ、御喉を潤されませ。
御菓子も御用意しておりますよ」
「うん、おかし、なぁに?」
「一位様が
かすていらを御用意くだされました」
「わぁ、おいしそう」
茶屋の縁側で越前が肩車から家継を降ろすと
家継は御菓子の用意してある
茵に駆け寄った。
金蒔絵の葵の御紋で飾られた
漆塗りの盥のぬるま湯で
家継は紅葉のような手を
侍女に洗ってもらい
真新しい手拭いで拭いてもらう。
綺麗になった紅葉のような手に
越前から温い白湯の入った茶碗を
包むように渡されると
家継は可愛い仕草で白湯を飲んだ。
白湯を飲み終わり
侍女が家継に御菓子を食べさせようとすると
家継は越前を指名した。
「えちがいい」
越前は苦笑しつつ幼い上様の意向に従う。
「御意にございまする」
「ほほほ、越前殿には敵いませぬ」
微笑む侍女からひとくち大に切った
かすていらを載せた漆塗の皿を手渡されると
家継に、一つづつゆっくりと食べさせる。
器用な越前は侍女達が家継を世話する様子を
見よう見まねで学び中奥では越前自ら
家継の世話をして、既に子育てに慣れた手つき。
親身に仕えてくれる越前に
いつしか家継は家宣を重ね
父のように慕い懐いた。
だが、月光院は越前のように器用ではなく
見ているだけ。
将軍家の若君として生まれた家継は
生まれた瞬間から
専属の侍女が幾人も付けられ
御殿向の若君の部屋で育てられた。
月光院は幼い頃から
時間があれば師匠の家に通わせられ
芸事を仕込まれ大名家を渡り歩いたので
幼子と接する機会もなく
家継を可愛がろうと思っても
どうしていいのかわからない。
御菓子休憩が終わると
病弱な家継が疲れないように
小一時間の御庭遊びはお開き。
茶屋の前には
帰りの駕籠が控えている。
越前は縁側に立つ家継を抱き上げ
駕籠に乗せると
もう一度縁側に向かい
縁側から降りる月光院の手を取って支えた。
月光院の手に越前の優しさが伝わり
染みてゆく。
生前の家宣が
熙子をいつも気遣う仕草だった。
ほんの僅かな段差でも
家宣は熙子を振り返り
熙子の手を取り支えていた。
月光院は一度も
家宣に支えられた事はない。
越前の優しさは
月光院の心に波紋を残した。
御休息之間では
熙子と法心院と蓮浄院が揃って
和気藹々(わきあいあい)と家継の帰りを待っていた。
畳敷きの廊下を元気に走る音が近づく。
「ただいまー」
「お帰りなされませ。
御庭は如何でしたか?」
熙子が声を掛けると
家継はそのまま駆け込んで熙子の膝に座り
弾む声で答えた。
「ははうえ、とってもたのしかった!」
「それは良うございました。
広い御庭に御成り遊ばせば
丈夫になられましょう。
わたくし共から上様に初めての御庭御成の
お祝いを御用意しておりますのよ」
家継の将軍としての
初 吹上御庭 御成りを祝う
三方に載せた大きな干鯛が
熙子、法心院、蓮浄院から贈られた。
将軍に相応しい大きな干鯛に
家継は驚いた。
「すごーい、おおきなおさかな。
ありがとう!」
目を輝かせて喜ぶ家継。
熙子や法心院蓮浄院
部屋中の女中達も嬉しくて微笑み合う。
ただ、月光院だけが
戸惑いを浮かべていた。
家継は家宣に似たのか
吹上御庭が気に入ったらしく
通って遊ぶようになり
熙子達も可愛く遊ぶ家継が見たいと
一家総出で吹上御庭に出掛けた。
「こっちにきれいな
おはながさいてるよ!」
小さな主として家継は自慢気に
吹上御庭の春の花の咲き乱れる花壇に
熙子達を案内する。
菫、桜草、芝桜、
早咲きの百合や薔薇。
色取り取りの花の中を
家継が楽しそうに走る。
家継は一際美しく咲く
百合の花壇の前で立ち止まると
幼いながらも御庭番に指図して
白い百合の花を切り取らせた。
「上様、どうぞ」
家継は跪く御庭番から
百合の花を受け取ると
はにかみながら熙子に贈る。
「ははうえ、あげる」
思いがけない贈り物に
熙子は嬉しくて涙ぐんでしまった。
「上様…御立派におなりになって…
忝うございまする」
「ははうえ、なかないで。
これからも おはないっぱいあげるから」
「上様…嬉しゅうございまする」
熙子は、思わず家継を抱きしめた。
家宣が涙ぐむ熙子にしたように
家継は小さな手で
熙子の肩を優しくそっと撫でると
照れ隠しのように
御庭番の差し出す百合の花を
月光院、法心院、蓮浄院にも贈った。
法心院と蓮浄院は
百合の花を持って微笑み合う。
その光景を見守る越前も
感動のあまり涙ぐんでいる。
可愛らしい贈り物の儀式が終わると
家継は花の周りを飛ぶ蝶を
追いかけたりと元気に遊んだ。
家継の遊ぶ姿は熙子達を癒やした。
月光院以外の三人の母達は
家宣の子を亡くしている。
一人残った家継は熙子達の宝物。
その夜
熙子の寝室の豪奢な布団の上で
透明な家宣は熙子を胸に抱いて
家継を褒めていた。
『上から見ていたが
家継は良い子に育っているな』
「文昭院様に良く似てお庭がお好きで
聡明でお優しゅうあらしゃいます。
わたくし、嬉しくて…」
熙子は白い百合の花を貰った時を思い出してまたもや涙ぐむ。
『誠に、そなたは泣き虫であるな』
家宣は熙子の涙を愛おしそうにそっと拭うと
切り下げを解いた尼削ぎの髪を優しく撫で
抱きしめた。
だが、この一家総出の団欒は
残酷な事に僅か一年足らずで
江島事件によって壊れたのだった。
月光院達の部屋の乱れと
収賄の詳細が知れ渡ると
優しく寛容な法心院と蓮浄院ですら
月光院とは距離を置いたのである。
腹心の江島達が追放され
お付き女中達が総入れ替えになり
月光院は大奥で孤立を深めた。