第三話 縁切り神社の縁切り鋏(ニ)
さて、改めて【曽鷹神社】の説明をしようと思う。
【曽鷹神社】は愛知県某市三河地方にある山間地域、曽鷹地域に鎮座している。
某市は愛知県でも広い面積を誇る市であるのだが、その為、工業地帯や住宅地が密集している地域もあれば、深い山々に囲まれた場所もあるというバラエティに富んだ地方の市町村である。
曽鷹地域は某市の中でも県境に近い山間部にあり、近隣に鉄道が走っておらず、交通手段として考えられるのは自家用車かバスのみであるため、此処へと訪れるには少々労力が必要になるようだ。
この曽鷹地域の主要産業は主に農業で、山間の僅かな土地を開墾した棚田や畑の長閑な景色が広がり、田舎町と言っても差し支えないだろう。
山々に囲まれた交通機関もあまり無い地域だからなのか、都市化が進んでいるとは言えず、中心地であっても昔の宿場町の様相を残し、山の麓に近づくにつれて田畑と茅葺屋根の古びた日本家屋が、新築そうで現代的な家々の中に混在している。
しかし、町の中心には国道が十字に交差しており、その道沿いに道の駅『花枝まゆの里 そったか』が最近新設された。
道の駅『花枝まゆの里 そったか』は地元の野菜や民芸品を売っている物販や、機織り体験の出来るスペース等があって、この町に賑わいをもたらしているようである。
その道の駅から、国道沿いに歩いて徒歩十分の場所に【曽鷹神社】がある。
【曽鷹神社】は、この集落に人々が定着し曽鷹集落が形成された時に、農業の安全と豊穣を祈念する為に木花之佐久夜毘売命を主神としてお迎えし現代まで信仰を集めている。
最初は農業だけだった産業だが、そこから養蚕業と絹織物業を生業とする者が現れ、地域の年貢として献上出来る程の品質の物を生み出していた。
その織物業の守護も【曽鷹神社】で祈られることとなり、今では農業と織物業の両方を守護する神社であると地域のガイドブックには紹介されているようだ。
ちなみに現代においても絹織物を生産する工場が地域内にいくつか営業され、道の駅『花枝まゆの里 そったか』や取り扱いのある店舗にてお買い求めいただける。
【曽鷹神社】一番の例祭では、カラフルに染められた繭玉を組紐で括り付けた装飾をお神輿に着けて練り歩く行事がおこなわれているらしく、そのお祭りの風景が写真映えするとSNSで話題になり、秋の祭りの時期には大勢の観光客で曽鷹の町が賑わっているらしい。
また、春の桜の時期には境内にある樹齢百年程の大きな枝垂桜とソメイヨシノが大層見事に咲き乱れ、その美麗さから、春もお祭りがおこなわれて神社は活気に満ちていく。
御神木の枝垂桜に似せてなのかわからないが、紅色に染められた繭玉と白い繭玉をしなやかな細枝へ交互に一定間隔で刺した『花枝繭』と呼ばれる装飾が敷地内に飾られて、まるでピンクに染まった桃源郷の如く美しい景色になるのだろう。
さて、一見すると【曽鷹神社】は豊穣や縁結びの御利益が有りそうで縁切りとは無縁そうだが、その秘密は末社にあった。
【曽鷹神社】には、【御糸切社】と呼ばれる末社が据えられている。
【御糸切明神】、【みしぎりさん】と呼ばれ親しまれているこの社は、天照大御神や稲荷神社等がある摂社とは離れた境内の片隅に鎮座しているが、他の社と同じく、又はそれ以上に清潔に保たれ大切にされていた。
と、いうのも【御糸切社】に祀られている御神体は持ち主を殺した下手人に復讐し、その後も縁切りの願いを叶え続けている『糸切り鋏』なのであると、言い伝えでは伝えられている。
一説には殺された被害者の霊魂が糸切り鋏に宿り復讐を果たしたとされ、その魂魄がそれ以上怨霊に近付かないよう丁重に祀っていると話される事もあるのだとか。
眉唾物の噂もあるが、縁切りの御利益は確かに感じている人々も多く、【御糸切社】にも多くの参拝客が願いに来ていた。
そしてハクバイに無理矢理連れてこられた直幸もまた、その参拝客の一人になるのである。
鉄道とバスを乗り継ぎ約三時間の長旅を経て、【曽鷹神社】の最寄りである道の駅『花枝まゆの里 そたっか』にやっと一人と一体は到着した。
直幸は乗車賃を払ってバスを降車し、深い緑と春の色が美しい曽鷹の地へ足をつける。
長々と乗車していたバスから降りた直後に直幸が感じたのは、春の柔らかで暖かみのある陽気だった。
彼自身の居住している愛知県瀬戸市は濃尾平野の東にあり、一応、尾張丘陵と呼ばれる丘陵に属している。
そんな瀬戸市よりももっと山奥の標高や海抜が高い場所へ来たので、気温も地元に比べれば低いはずなのだが、雲一つない快晴の空から降り注ぐ陽光が直幸を包みこんでほんわりと暖かい。
取り囲む葉のない木々も多い山の中腹では、山桜や色の淡い桜が若葉と共に山を飾って優しい景色が眼前に広がり、平穏や平和といった言葉が似合うそんな場所だと彼は思った。
「はぁあああああ……。やっと着いた…………。」
長時間バスの座席に座っていて身体が固まり痛くなっていた直幸は、清らかな空気を吸い込んで一つ大きく伸びをする。
直幸に憑いているハクバイもまた、狭い空間から解放された喜びからなのか、若草色よりも濃く深い翠玉の如き緑の釉薬と、稲妻の様に走る金継ぎされた割れ目を、日の光に煌めかせながら前足や首を回して身体を解していた。
「遠かった……。」
「長くはあったが、それでも一日のうちに到着したな。しかし、この距離をこの時間で向かうことが本当に出来ようとは……。外の景色を眺めようにも瞬きの間に過ぎ去ってしまうし、まこと不可思議な体験であった。」
バスの道中、窓から外の景色を眺めては直幸に質問をしていたハクバイは結構楽しかったようで、ホクホクと満足気な顔をして頷いた。
興奮は冷めやらぬが一旦落ち着こうと一息つき、ハクバイは降り立った直ぐの辺りを見回すと、目の前に灰色のいくつかの建物が並んでおり、最近、現代知識を契約者……つまり直幸に聞いているとしても少々わからず何の建造物だろうと思考し始める。
そんなハクバイを横目に直幸は道路と周辺を見渡し、道の駅に面した広いアスファルトの駐車場のロータリーにバス停があるのだと確認した。
建物には『ようこそ!曽鷹へ』や『道の駅』、『花枝まゆの里 そたっか』といった看板が掲げられている。
少し錆びたりツヤの無さを見て、この道の駅はちょっと前に出来たのだろうと直幸は感想を抱いた。
ハクバイは『道の駅』と書かれた看板を眺め、首を傾げる。
「して、ここが【曽鷹神社】……ではないだろう?この場所は一体どんな所なのだ?」
「ここは道の駅だ。えっと、道の駅って言うのは……地域の特産物が売ってたり、トイレとか休憩所とかあったりするんだ。地域によって色々違うから、道の駅を巡って旅をする人もいるみたいだな。」
「ほお?土産等も売っているのか?」
特産物と聞いて、ハクバイはソワソワと道の駅へ視線を向ける。
好奇心が強いこの付喪神は、初めて訪れた道の駅やこの地について知りたいらしい。
直幸は観光や休憩で使えるかなと思うくらいであまり興味の無かった事柄だったので、ハクバイには知っている範囲で『道の駅』についての情報を伝えた。
「そうじゃないか?後は、地元で採れた野菜とか売ってるイメージあるけど。」
「なるほど……興味深いな!帰りの時間に余裕があれば寄ってくれ。今日は縁切りが本命なのだから、【曽鷹神社】へ赴くことが先決である。」
「わかったわかった……。マップアプリを見るとこの道を真っ直ぐ行ったら直ぐにあるはずだから、とりあえず歩くか……。」
彼はそうハクバイに告げ、道の駅に面する片側一車線の比較的整備がされた道路の脇を、マップで確認をしながら歩き始める。
ガードレールの内側、直幸達の歩く歩道には春の花々がアスファルトの割れ目から咲きだして日の光を浴びて輝く。
黄色に紫、青の小花と生命力の強そうな緑のコントラストが、寂しげだった冬はもう終わりだと囁きかけているようだ。
左手に見える車道を越えた反対側は、秋に収穫を終え耕されたままの田畑の隙間にポツポツと古く大きい民家が並んでいるが、それは山側にいくに連れて密集度が増し、昔からここの土地を持っている人々なのだろう。
右手側もまた同じだが、こちらの方が山が遠く、民家の合間に小学校のような大きめの建物も発見することが出来た。
普段、旅行などしない直幸は初めて訪れたこの地をキョロキョロと見渡して、歩く度に頬へ受ける少し冷たい風にフルリと震える。
「こんな山奥まで来たこと無かったけど、のどかな所だな。歩くにはちょっと寒い気がするけど……。」
「そうか?少々の寒さも、春の陽気を楽しむ風情の一つよ。それにしてもこの土地は農民がいるのだな……田畑も整えられ、畦道には野の花が咲き誇る……。うむうむ、田畑の風景は、昔も今の世も変わらぬな。」
ハクバイもこの景色を楽しんでいるようで、細くしなやかな尾がゆらゆらと揺れていた。
「農業も農薬があったり、機械が耕したりするからお前の居た昔と方法は変わってるけど……この景色は同じなのか。」
「あぁ、窯を焚かぬ時は豊結窯の周りを、行ける範囲で見て回ったものだ。窯の有る飛達の里は閉ざした谷間の村であったからな、見回る箇所はそう多くは無かったが……民は畑を耕し、採れた作物を年貢として納めていた。」
彼は直幸の右肩に手を置き、いつかの郷愁を呼び起こしながら寂しげに稲の刈られた田んぼを眺める。
「しかしな、村は貧しかれど……春の素晴らしさは全てあった。作物の花々が咲き乱れ、若葉は萌え、生命に満ち満ちている……とても美しかった。」
「確かにまぁ……春が綺麗だって言う意見は、同意するかな。」
花や風情というものに興味が湧かなくとも、『春は美しい』と直幸も思う。
暖かい色彩の花々に溢れた色彩は、いつも見ている風景を楽園へと変えてくれるのだ。
ポツポツ話しながらしばらく一人と一体が歩いていると、目的地に到着する。
徒歩十分とは長い様で短く、歩いている方向の左側にコンクリートで出来た錫色の外垣と、青々とした葉を付けるクスノキ、そして満開に咲き誇る桜の木々の隙間から、外垣と同じ色の大きな鳥居がちらりと確認出来た。
足早に歩き、鳥居の前までたどり着くと、一人と一体は目を見開き感嘆の声を上げる。
「おぉ…!!………これは、凄いな!」
「うむ、楽土や浄土と呼ばれても頷ける程に、この光景は美しいな。」
ひらり、淡紅の花びらが風に舞う。
桜の花びらが、宙に踊る。
彼等の瞳に映るのは、春色の絶景だった。
鳥居の前から眺める神社の境内は、桃色に包まれて春めく。
この神社の鎮守の森にはサカキやクスノキの常若の緑と、ソメイヨシノやモミジといった落葉樹が植えられているようで、外垣の縁を沿うように植えられた満開の桜が、花弁の雨を降らし玉砂利に桜の水溜りを作っていた。
参道に目を向けると、そこには高さが六十センチ程の竹灯籠が同じ間隔で設置され、夕方になれば点描みたいに穿たれた穴から光が溢れ、影絵のごとくこの場所を幻想的に魅せるだろう。
その竹灯籠の間には、高さが三十センチありそうで桜柄の千代紙で飾られた円柱状の鉢植えに、細くしなやかな枝が何本も刺さっており、その枝に紅色へ染められた繭玉と素のままの白い繭玉が交互に着けられている。
見た目が一番近い物体をあげるのならば、岐阜県飛騨地方のお正月でよく観られる『花餅(又は餅花)』であろうか。
花餅は紅白の小さな餅を細枝へ交互に着けるものであるが、これは餅の部分が繭玉に変わっている物のようだ。
『花枝繭』が枝垂れ梅や花桃みたいに思え、天上には桜が覆い尽くさんばかりに咲き誇る。
その幻想的な光景に息を呑んで見惚れていた一人と一体であったが、立ち止まっては時間がもったいないと鳥居をくぐる……前に、ハクバイは待ったをかけた。
「これ!!ズケズケと進むでない!一度、鳥居の前に立ち止まり、一礼するのだ。」
「えっ、何でそんな事する必要あるんだ?普通に入って行っちゃ駄目なのか?」
いきなりストップをかけられた直幸は、ハクバイに思わず聞いた。
彼は直幸の首元をペチンと、一つ軽く叩く。
「そなたは他人の家へ入る時に、『ごめんください』など挨拶をせぬのか?ここは神がおわす社だぞ、領域に入るのだから敬意を持って伺わなくてはな。」
そのハクバイの言葉を聞いて、直幸は(確かに?)と頭の中で思う。
鳥居の前でお辞儀をしてもしなくても、特に問題もなく通り過ぎる事が出来るだろうけれど、敷地内に入るという行為にも祈りを籠めるのならば、より丁寧な方が神様も祈りを聞いてくれそうな気もしてくる。
彼はそう納得して、ハクバイと言葉を交わした。
「な、なるほど?敷地に入らせて貰うんだから、そりゃそうか。」
「後は参道は極力、中央を歩かぬように。道の真ん中は神の通り道であるからな、人で混み合っているのならしょうがなかろうが……基本的には参道の端の方を歩くと良い。あとは………。」
ツラツラと並べられる手順や作法に直幸は追いつけず、思わず声を荒げた。
「なんか……ルールとか作法が多くないか!?覚えられるか、心配なんだが。」
「『るーる』の意味は良くわからぬが……その神社の禁を犯さぬ限り、それを守れなかったとて神は怒らぬよ。そこまで、人間を注視しておらぬし。」
「そう……なのか。」
今から神頼みをする人間にかける言葉なのかと、直幸は驚いた。
そして、神々が人間を特に気にしていないと言われたようで、『信仰している神は何ですか?』と問われれば、無宗教……強いて言うなら仏教?と答える彼であっても少しガッカリと落胆する。
彼にとって少なからず衝撃的な発言をした張本人の付喪神は、人間の反応に気も留めず会話を続けた。
「しかし………願う事であれ、祈る事であれ、人間が神社へ参ると言う事は何かしらの想いを抱え行くのだろう?神へと、その願望を乞い願うのだろう?」
「まぁ、そういった人達が多いと思うぞ。」
「ならば、その神社に祀ろう存在への敬意の表し方として、そうした作法をおこなうのは自然な現れ方であると思うぞ。神社とは、信仰の場であるのだからな。」
そう話したハクバイの周囲は、清澄で凛とした雰囲気が漂い、直幸は確かに彼は神の末席に居る者なのだろうと思う程の存在感を感じた。
しかしながら、直幸にとって神社仏閣などろくに興味の無かった分野なので、どうしたら良いのかわからないが出来るだけ努力をしようと彼は決意する。
「そう言われちゃ、出来るだけ頑張るけどさ。でも、俺は神社における作法なんて良く知らないからさ、下手しちゃっても怒らないでくれよ?」
「その場合は、我が身がその都度注意するので心してかかるように。」
「えっ、それはなんだか嫌なんだけど……。」
話も一区切りつき、直幸はハクバイに言われたとおりに鳥居の前で一礼し、手水舎に向かう為に参道の右側を歩いていく。
ジャリジャリと銀鼠色の小石が踏まれる音を静寂な境内に響かせながら向かうと、すぐに手水舎へとたどり着いた。
造りは四本の白木の柱と木皮が素材の板張りの屋根という、いたってシンプルで一般的な造りで、屋根の下にはゴツゴツとした大きな石の水盤があり、八本程の柄杓がその縁に置かれている。
石に着けられた青銅色の竜から絶えず清らかな水が水盤に注ぎ込まれ、石水盤を並々と満たしており、今か今かと参拝客を待っているようだ。
初めて参る人の為なのか、手水舎においての柄杓の扱い方や手の洗う順番が書かれた看板が設置されており、直幸はハクバイに手順を聞かずに済んでホッと安堵する。
色々と知らなかった知識を教えてくれるのはありがたいのだが、偉そうな態度と口調が直幸にとって少しだけムカつくのだった。
さてと、手順通りに……と言っても口をすすぐ事は衛生的に少しばかり抵抗を覚えた直幸は、口を洗う事はせずに左手と右手、それから使用した柄杓を垂直に持って持ち手を水でゆすぐ。
その隣で、いつの間にか肩から降りていたハクバイは、同じ行程で前足を洗って口もすすいでいた。
フルフルと身体を震わせて口や前足の水分を飛ばし、再び直幸の肩に収まるのだが、冷たい水を触った後だからなのか肩に戻って来たハクバイの身体は、ヒンヤリと冷えていると直幸はなんとなく思う。
そうして行程を終えた彼等はお参りをする為に、拝殿への道に戻っていく……のだが、直幸はふと視線の先に気になるものを見つけた。
「……あれ?他にも参拝客が居たのか。」
静寂の漂うそこはもう参拝時間が終わる時間になりつつある為か、参拝客や神職が居る気配が無く、だからこそ直幸は傍目から見れば独り言のように聞こえるハクバイと会話を、人目も気にせずにすんなりとしていたのだが、どうやら先客がいたようなのである。
人間の気配に敏感だと自負しているハクバイは、自身に感じ取れなかった人影の存在にひどく驚いた。
「うむ?何処におるのか?」
「あそこに立っているだろ?桜を眺めてる着物の女性が。」
ほら、と直幸が指差す方向は目的である縁切り社……【御糸切社】が鎮座している場所だった。
正面に建っている拝殿の横、ずっと奥の本殿に近い場所に小さな末社の並ぶ空間があり、小さな社の周囲にも桜が植えられ、さらに奥の鎮守の森の暗がりに、桜の柔らかな色合いが辺りの雰囲気を朗らかなものにしている。
その薄紅色の屋根の下、一人の女性が佇み、満開の桜を見上げていた。
時代劇でよく見る結われた髪型で、白銀色の……金属製の櫛と簪が藍色の髪紐と共に黒髪を彩る。
女性の身に纏う着物は振袖よりは袂が短く、その生地の色彩は夜の様な深みのある群青で、白の糸で刺し子された七宝模様が、まるで夜空に描く星座の如く美しい。
凛と背筋を伸ばし桜を見上げる横顔は、キリリとしたツリ目も相まって勝ち気な麗人だとわかる容姿で、現代ならば宝塚で男役を務めていてもおかしくないと思わせるほどだ。
秀麗な麗人におもわずジッと観察してしまった為か、直幸の視線に気付いた女性はそちらへ向き直り、訝しむ様に眉を寄せていた。
慌てて視線を逸らし、指していた指を下ろした直幸にハクバイは顔を覗き込んで話しかける。
「なるほど、ここにも神が居る……と言うことだな。でも、もし人間であったとしても人を指で指し示すでない。無礼であるぞ。」
「いや、ごめん。つい……って、あの女性は神様なのか?」
思わず彼は立ち止まり、着物の女性の方へ目線を向けると、彼女もまたこちらを観察しているのか、彼女と思わず目が合ってしまい直幸はすぐに前を向いて歩き始めた。
ジャリジャリと石が石にぶつかる玉砂利の小石の感触から、整備されている綺麗な石畳に変わったトコトコと響く足音は静かな社に木霊し、彼等の存在をより際立たせている。
ハクバイは彼女からの疑っているような警戒心の強い視線を平気そうに受けつつ、直幸の疑問に答えた。
「そうであるし、また別の存在でもある。彼女こそ曽鷹神社におわす縁切りの神なのだろうが、我が身と近い気配を感じる。彼女は、【御糸切社】の御神体の付喪神なのではないかと思うのだが……。」
「付喪神で神様ってことか?」
「……そうであるな。そうとも言える……と、言った感じか。まぁ、我が身達には気にする事も無いことである。」
会話をぶった切られた様な気がして、直幸は余計にそう言われる女性の正体が気になってくる。
「えぇ……?そう言われると気になるんだけど……。」
「良いのだ。さて、参拝をしなくてはな。」
「ほら、行くのだ。」とハクバイにペチペチ頬を柔く叩かれた彼は、帰りの時間もあるし遅くなっては用事も済ませられないと、気持ちを切り替えて参道に歩を進める。
綺麗に掃き清められた石畳を歩き、やっと到着した曽鷹神社の本殿および拝殿は、入母屋造と呼ばれる神社仏閣では良く見られる様式で造られており、朱塗りのされていない柱や壁は、歴史の蓄積により黄褐色へと変色していた。
人々が思い浮かべる朱塗りのパッと華やぐ豪華さとは異なり、装飾の削ぎ落とされたシンプルな自然そのままの色合いは、この清閑な神社に良く合っていて空間に調和している。
同じく経年劣化による変色で使い込まれた印象を受ける賽銭箱と、鈴と鳴らす縄が一つになっている鈴緒の前まで彼等が来た所、ハクバイは直幸の肩からヒョイと降りて彼の右側に並び立つと、そのままハクバイはその大きく開いた漆黒の瞳を、彼の方へ向けて質問をおこなった。
「そなたは、拝礼の作法はわかっておるのか?」
「は、拝礼って初めて聞く用語出てきたな……。多分だけど、お賽銭入れて鈴を鳴らした後の行動の話だろ?」
「うむ、まぁ概ねそうだ。」
「確か……二回お辞儀して、二回手を叩いて、一回お辞儀するんだよな?」
その言葉を聞き、ハクバイはキョトンと直幸を見返す。
「ふむ?その作法は聞いたことが無いな?」
「えっ、そうなのか!?」
「我が身を創り出した主達が居た頃は、八百万の神も仏尊も一纏まりであったからなぁ。手水舎で手を洗ったり共通する事はあれど、比較的自由に拝んでいたと思う。」
神社で良く耳にする『二拝二拍一拝(または二礼二拍手一礼)』の作法が、実は江戸時代には無かったと言う話を聞き直幸は驚愕した。
つまり今では普及しているそれが、長い日本の歴史の中では比較的新しい物であるのは知っている人も少ないだろう。
「そうなんだ!?なら礼儀のある範囲で祈っても良いんだったら、適当に祈ろうかな……。」
「我が身がまだ窯守で、現役だった数百年前の話であるぞ?今の世につれ一般化された作法が浸透する事は、あり得ることである。」
「人々の移ろいは早いものだからなぁ」と遠くを見つめるハクバイは、少し昔の事を思い出し感傷に浸りかけるが首を振って思いを払う。
そして、不思議そうな顔で見つめる直幸に向き直った。
「『二回お辞儀、二回拍手、一回お辞儀』……つまりは『二拝二拍一拝』であるな?それが今の世の拝礼の作法であるならば、それに則っておこなうのが良かろう。」
ハクバイはそう告げると、拝殿の正面に向き直る。
そのタイミングで直幸は、幾らか手元に有った小銭を賽銭箱に投げ入れて、上から吊るされている紐を揺らし鈴を鳴らした。
カランコロンと少し大きめな音が境内に響き、直幸は鳴らしすぎたかと恥ずかしさを少し覚えたが、気を取り直して二回頭を深く下げると二回拍手をして目を閉じる。
(どうか、どうか今よりも良くなりますように……それか、こいつから早く解放されますように……!)
自分ではどうにもならない現状において、気休めにしかならないかも知れない行動で少しでも良くなれば良いと直幸は祈る。
数秒か数十秒の間だっただろうか、しっかりと願い事を心の中で思った直幸は、目を開いて一度深くお辞儀すると、祈り終わったのだろう同じように顔を上げていたハクバイと目が合った。
「……よし、では【御糸切社】のある方へ向かうとしよう。」
「あ、ああ……。そういえばお参りの時に、お前は何か願ったのか?」
直幸は目を閉じて願い事をしていたが、その時にふと気になったのだ。
妻を一途に思うこの付喪神は、かの最愛と無事に再会出来る事を願ったのだろうか……と。
「我が身がこの社で願い事を……?」
問われたハクバイ本人は、キョトンと直幸の顔を見つめ、考えもしなかったとばかりに呆けていた。
「お前は奥さんを探しているんだろ?だからここで、神頼みとかしたのかなって……。」
「……たわけが。我が身は窯守……窯を守護する神であり、付喪神なるぞ?神が神に乞うてどうする。」
「あっ、そうだった。お前って一応神様なんだっけ……って、祟り神って他の神様の領域に入っても大丈夫なのか?」
神道は、アニミズムな自然信仰を中心としている。
その考えの中でも罪穢れを良しとせず祓い清める禊祓の観念は、その道を知らない一般人でも多くの人が何となく理解しているだろう。
あまり宗教関係について知らない直幸でも、その辺りは知っていたので、祟り神や怨霊一歩手前と自称しているこの付喪神は、そもそも神社へ入っても大丈夫なのだろうかと疑問に思った。
彼の質問を聞いたハクバイは、失念していた事に対する困惑と不安などで、動揺をありありと浮かべた複雑そうな顔へと歪めて口を開く。
「……大丈夫だろう、……多分。」
「多分って……。」
煮え切らない解答に直幸は困惑を深めるが、答えた彼はそれどころでは無さそうで、彼の頭の内で考えている事がポロポロと口から溢れている。
「どんなに人間を恨もうとも、我が身はまだ罪を犯してはおらぬし?恨みすぎて魂がちと歪になっているやも知れぬが、精神が穢れておるのは重々承知ではあるのだが……?いやいや、この社に入る事が出来た時点で、大丈夫なのでは……?」
グルグルと思考を巡らせ始めたハクバイに、直幸は一つため息を吐く。
このまま放って置いても良いのだが、これから末社へ参拝に向かうし、時間も無いので直幸は彼の意識をこちらへ引き戻す事とした。
「でさ、結局は大丈夫なんだよな?神社に入れてるし、心身共に平気だし。」
「まぁ……この社は大丈夫であろう、多分。もう拝殿での参拝は済ませておるし、駄目ならば鳥居をくぐる時点で弾かれていようぞ。」
「ふーん?」
「それにしても我が身とした事が、窯守としての矜持が高すぎるゆえ気にするべき事を疎かにしておった……。次は気をつけておこう、どの神も時には寛容で無いかも知れぬからな。」
猛反省しているハクバイに対して一つ感じた事があった為、彼は質問をしてみることにした。
「……もしかして外の見たこと無い物に興味津々で、夢中になっていて忘れてたとかある?」
図星を突かれたのか、ハクバイは彼の顔から視線をそらす。
「……まぁ、それはもう良いのだ!行くぞ!!」
強引に話を切り上げて直幸の右肩に再び登ったハクバイにもう一度ため息を吐いて、彼は末社のある方へと一歩、足を進め始めた。
第三話(三)へ続く