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スエのカミ  作者: 樫花藻
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第一話 深き山の廃墟にて



 ざあざあ ざあざあと大粒の雨がまるで滝のように激しく、枯れ葉の落ちた細枝と常磐ときわ色のまだ緑を残す木の葉に打ち付け、騒がしい音が辺りを満たす。

空は日も暮れ黄昏たそがれも終わり、夜闇よやみ荒天こうてんの色を濃くして、ざわめく山の斜面の暗がりを、一層深く沈ませている。

動物たちも寝床に帰ったのか辺りに居るような気配は無く、鳥の声や虫の声さえも聞こえず、雨音と雷鳴の音のみが響いている不気味な状況であった。


 この場所は何処どこかの山の中、山の斜面に広がる森林地帯である。

近くに住宅地は見当たらず、買い物をするには少し離れた所に行かねばならなさそうだ。

生えている樹木は比較的広葉樹が多く、人が入り込めそうに無い雑草が左右に別れている獣道けものみちや、昼間の秋には紅葉やハイキングも楽しめただろう、ある程度整備された道のある長閑のどかな場所のようだった。

だが、そこも暗中ではかろうじてしか物を視界にとらえることが出来ず、足元や周囲を危なく不確かにさせている。

暗闇の中、大粒の雨によって視界も足元も悪く、そしてまだ寒い時期である事から、このような場所に人間など来るはずもない…。


 無いはずなのだが、生物の呼吸音が一つ聞こえてくる。


「…はっ……はっ……。」


 暗い森の中を、ある一人の男がちて土へ還り始めている枯れ葉と、寒々しい季節でもたくましく生えている雑草を掻き分けて走っている。


「…はっ…ぐっ……ひゅ……。」


 苦しそうに息を荒くし、時折、喘鳴ぜんめいが混じってはき込みそうになっている…そんな音のようだ。

降り注ぐ雨さえも、男の呼吸を阻害そがいしているのだろうか?


 まだ春にならない季節の冷たい雨垂あまだれが、男の血の気の失せた青白いほおに流れ、体を固くこごえさせる。

せた手腕が枯れ枝で切り傷を作るのもいとわず、邪魔だとばかりに男は枝葉を退しりぞけて移動していた。

男が着ている、ヨレヨレにシワが寄ってしまった白色のシャツは水分で重くなり、拘束具のように彼の痩身そうしんまとわわり付く。

いているチャコールグレーのズボンもまた、雨と泥でグチョグチョに汚れていた。


「……ひっ………けほっ…。」


ただ、前だけを…己の行く先だけを見ている双眼は、闇色におおわれ、それが天候の悪い夜のとばりのせいなのか深く閉ざしているように見えた。

まだ寒い季節の激しい雨と風で荒れた暗い暗い山中、視界の悪い夜闇の中で、人間一人が何をすると言うのだろうか?


「………はっ………はっ…」


男は走る。走る。走る。


 男は絶望している。


理不尽に叱咤しったする会社に、冷たくないがしろにする家族に、何も助けてくれない社会に絶望している。

この世の全てが憎らしく思えて、恨み、呪った。

こんな現実において、自分など代わりのいる一人でしかなく、自己の価値など無いに等しいのだと感じた。


走る、走る、走る…。


「もう……き……えた…………。」


 男は死地を求めていた。

自分が居なくなるべき場所を、死という現世からの逃避とうひが出来る場所を求めて森の中を彷徨さまよい走っていた。


 暗い森に、光がまたたく。


黒い雲の重い曇天どんてんには、紫の稲妻がいくつも天へ模様を描き、その数個は轟音ごうおんとともに何処どこかへ落ちていった。


「…………あっ!?」


雷鳴がとどろく地響のような音に驚いたのか、男は体を一瞬だけ硬直させる。


 ハッと意識を戻して、次の一歩を踏みこみ…ズルリと足が滑り落ちた。

踏み外してしまったその体躯たいくは重力に身を任せ、グチャグチャになった枯れ葉と泥と一緒に、斜面の下の暗がりへと転がり滑っていく。


「うわぁあああああああっ!!!!!」



 男は悲鳴を上げながら落ちていくが、その叫びは雷鳴にかき消される。


 そうして男の居なくなったその場所には、もう闇に沈んだ森しか存在しなかった。


ざあざあ、ざあざあと雨音が絶えず聞こえる。


雨は、まだ止みそうに無い。

















 どれくらい経っただろうか?


 一秒にも数分にも、あるいは永遠にも感じる夜の暗闇の中、まだまだ降り続く雨粒をポツリポツリと顔面に受けて、男は億劫おっくうそうにゆっくりとまぶたを開いていく。

どうやら斜面の途中で止まったらしく、斜めの地面に、管理のされていない枝葉が自由に伸びて空を隠している木々が、先程と同じように所狭しと生えているようだ。

また、地面を見やれば雑草が茂り、枯れた葉っぱと草花が入り混じっている。


 男の身体は全身が打ったように痛く、特に足を挫いたのか右足首がじわりと熱を帯びている。

キョロキョロと男は首を動かして辺りを見渡せど、木立が鬱蒼うっそうと生えているのみ…かと思えば、暗い中に人工物じみた物が男のいる近くに存在しているようだ。


 目をらすと、それはどうやら台形のかまくらみたいな物が幾つも団子の様につらなっている。

ドーム状の屋根は四つあり、斜面の下側にある二つは崩れていた。

その建造物を構成しているものは、どうやら何かで積まれているらしく、暗がりで灰褐色はいかっしょくに似た長方形の石のような物が交互に重なっている。

一部分…屋根に当たる部分はコンクリートか何かで覆われているのか分からないが、蔓延はびこる雑草の間からザラザラとした箇所かしょがあるようだ。


 光が瞬く。


紫色の雷光により、一瞬見えた限りでは人が住めるような大きさでは無かったが、かがめば入ることが出来そうな入口が、側面にしげったつたの間にあった。

男は両膝と両手を使い、うようにその物体の崩れた方へ近付いてみる。

ガサリ グチャリと泥と雑草と己の血が男を汚すが、構わずに這って進み、その廃墟はいきょにたどり着いた。


 明らかに人工物のそれは、手入れをされずに時が経ち、人から見放されたわびしさを感じさせる。


「………石が積んである…のか?古墳時代とかの遺跡だったのかな……。」


学生の歴史の授業の時に見たような、歴史を経た古い貫禄がその建造物にあるようで、男は何かの遺跡だと思った。


「ここが俺の………死に場所…か…………。」


 痛む体に、痛む心、疲れ果てた男はもうどうでも良くなっていた。

とうに絶望していた心には、これから訪れる死すらある種救いだと感じられるし、身体は動く気力も無い。


 生きたいとは思えなかった。


 もう 消えてしまいたかった。


男は打ち捨てられたこの廃墟こそ自分の死地だと悟り、雨にれ、視界がにじむ世界をもう見たくないとでも言うように瞼を伏せる。




 光が 瞬く。


紫の雷光の視界に、赤が混ざる。


 それは、ヒラリヒラリと花弁のように空中を舞っていたが、次第に大きく勢いが強くなっていく。


朱赤しゅあかの揺らめきが、強く瞬き燃え上がる。


皮膚ひふが焼けるほど熱い熱風が彼の頬をかすめ、思わず男は顔をしかめた。


「それは石ではなく煉瓦れんがであるし、ここは神代かみよの時代の遺跡ではないぞ、たわけ者。」


 暗闇の中で美しい程に光を放つ炎が、潰れすたれた煉瓦の隙間から吹き上がる。

あかい光と別の誰かの声に驚き、男は目を見開いた。


 緋色や橙色にも変わる、朱赤の柔らかな光が男の視界いっぱいに揺らめく。

崩れた廃墟の二ヶ所から、煌々(こうこう)と轟々(ごうこう)と朱色の炎が燃えて、辺りを明るくしていた。

炎は勢いが強く、時折、男へ火の粉を飛ばすが、当たっている火の粉は熱くは無く、先程感じた熱風が気の所為せいに感じる。


「ここは、豊結窯ほうゆうようのぼがまである。」


低い男の声が、パチパチと木のぜる…まきを燃やしたような音とともに炎の中から木霊こだました。


「今は亡きされた窯場かまばに何用だ、人間。」

「何用だ…って言われても…。ただここまで滑り落ちて来ただけだし…。」


 男は、この現状に混乱していた。

男は死のうと思い此処ここまで来た訳だが、周囲が、男の体験したことのない不可思議な現象に包まれている。

声の言う〈ホウユウヨウのノボリガマ〉と聞こえた廃墟は、雨が絶えず降っているから炎をけようもくはずが無いのに、赤よりは黄みを重ねた朱色の炎が、煉瓦だと発言があったそこから吹き出て、そこから木が燃えて爆ぜる音もする。

そもそも、炎から声が聞こえる事がおかしい。


「ならば立ち去れ。殺されたくなければな。」


声は怒気をはらみながら、静かに男へ話す。


 男は、その言葉に目を見開いた。


それは男が今、心から欲している事だったからだ。


「殺…して……くれる……のか!!」

「は?」


男の歓喜に満ちた言葉に、炎から聞こえる声は戸惑いを隠せない。

しかし男は顔に笑みを浮かべ、燃え盛る炎へと這い寄った。


 それはまるで、この苦しみから救ってくれる救い主へとすがり付く様に。


「………死にた….いんだ。この世から消えたい……もう嫌だ……、殺してくれ…殺してくれ…!!!!」


男はしっとりと濡れた廃墟の煉瓦を強く握り、腹へ抱え込んで嗚咽おえつらし始めた。

限界をとうに越えた心から、悲鳴の様に過去を吐露とろする。


「……父さんが生きていた小学生の頃は幸せだった…。家族三人で平穏に、普通に暮らしていたのに...!交通事故で突然死んで、母さんは俺に冷たくなった……。母さんは俺を見ない、自分の装飾品の様に、新しい結婚の為に子供を大事にしているアピールの為に俺を世話してた。」


男の独白は止まらない。


「母さんが結婚してからは、俺はそこに居なかった……新しい父親も、新しい妹も、そして母さんも……虐待に見えない最低限の食料と衣服だけ貰って、存在しない者の様に扱った。見てもらいたくて、愛してもらいたくて、家の家事は全部やったけど誰も俺を見なかった。」

「…。」


男のなげきを、声は何も言わずに聞いている。


「でも、感謝はしてるんだ…世間体の為に高校は父親ののこしたお金で行かせてくれたし…、その後は就職するまでは置いてくれたから……だから、中学生の時も高校生の時も良い子でいたのに……馬鹿な俺だけど、勉強する努力もしたのに……。だけど、家に俺の居場所は無かった……。」


嗚咽と雨音と樹葉のさざめく音、そして薪の燃える音の他に、ギリギリと爪が硬い煉瓦を引っ掻く音が混じる。

彼の声は最初は小さなものだったが、次第に雷鳴に負けないぐらいに大きくなっていった。


「就職しても、上司にはいつも罵られた……。お前は出来損ないだと、ゴミはゴミなりに休み無く働けと、お前の代わりは幾らでも居るのだと………。だから、働いた。働いた。働いた。働いたよ。働いた。働いたんだ。働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いて働いてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいてはたらいて………。俺は、」


 男は声がした炎の方へ、顔を上げた。

男の死んだ魚の目のようなひとみからは涙が絶え間なく流れ、口元は歪に笑みを浮かべていた。


「俺は、この世界に居なくてもいい存在だってはっきり分かったんだ!!!!!!生きていちゃ駄目なんだ!!!!!!消えたほうがいい!!!!居なくならなくちゃ!!!!消えなくちゃ!!!!お前が何なのかよくわからないけど、でも、俺はこの山にいなくなりに来たんだ!!だから、どうか、どうかお願いします………。おれを、ころして……ください………。……おれを、すくってください…………。」


そう話した後、男は再びその場でうずくまる。

その姿は、炎に首を差し出している様に見えた。


 炎は揺らめく。


少しの静寂が辺りを包み、


「…これもえん、と言うやつか?」


声は、そう呟いてため息を吐いた。




 そして吹き出している炎は勢いを増し、一つの形を取る。

形は朱炎から硬質な質感になり、形無き物から生き物の形へと成った。


 それは大きな大型犬程のある、陶器とうきのような素材のヤモリだった。


 白土の少し黄色みを帯びた白地に、薄い所は瑞々しい萌黄もえぎ色で濃い所は深い暗緑あんりょく色のツヤツヤとしたガラス質がヤモリの左目付近から左肩と右足から尻尾を覆っていて、綺麗な森の色をしている。

瞳はうるしの黒に近い色で、雨がそこをうるおしツルリとつやめいていた。

白地の部分には、白土よりも白い何かで五枚の花弁がある花が幾つも描かれ咲き誇り、その花の中を焦げ茶のような黒色の龍が一匹、優雅に泳いでいるようだ。

割れているのだろう所々ある割れ目は、金色の何かで破片がつなぎ合わされ、火の粉がちらつく度に金のきらめきが体の近くに散ってはその体躯をいろどる。


 ヤモリはスルリと男に近付き、5本の指で彼の右手首を強く握りしめた。

黒曜石こくようせきのような瞳を男に向け、大きな口をパカリと広げる。


は、人間が嫌いだ。この登り窯を作り、我が身を作成した主には感謝と尊敬の念を感じるが、その主と豊結窯…そしてこの近辺に隠れ住んでいた民等たみらを根絶やしにしたのは人間だ。我が身のつい、我が妻を盗んでいった者も人間なのだ。」


 手首を掴まれた男は、その言葉に身を固くする。

その様子をヤモリは一瞥いちべつし、また話し始める。


「人間が憎らしく、恨めしい。ここでそなたの望み通りに殺しても良いのだが……、これも縁と言うモノだ。」


 空いていたヤモリのもう一つの手が男のあごを掴み、顔を自分の正面へ強引に向けさせた。

人間のやわい皮膚に、鋭い爪が食い込む。

男は眉を下げ、生きる気力も見当たらない洞穴に似た瞳からは、絶え間なく涙がこぼれ落ちていた。


「そなた、名を何と言う?」

「……………。」

「名は?」


ヤモリは男を掴む力を強め、男は痛みにうめいた。


「うぅ…………あぐっ………。」

「名を聞いているのだ、たわけ者が。」

「………な……ゆき……。」

「聞こえぬぞ。」


大きな黒い眼球が、同じく黒い眼を覗き込む。


「俺、は…俺の名前は、カトウ ナオユキ、だ……!」


カトウ ナオユキ、男はしっかりと自分の名前を発音した。

ヤモリは満足したのか男の顔に近付けていた顔面を、少しだけ離して思案する。


「カトウ ナオユキ…ふむ?漢字はどう書く?カトウは加賀国かがのくにに、花の藤か?」

「そ…う…。ナオユキのナオ…は…なおすとかまっすぐって意味のなおで………ユキは………幸せって文字………。」

加藤かとう 直幸なおゆき……。ふむ、ふむ、あいわかった。」


うむ、うむと縦に頷くヤモリを見て、男…直幸は困惑を深める。

人を憎んでいると言ったこのよくわからない化け物は、自身を殺してくれるようだったが、なかなか死なずにいる。

死にたかった直幸にとっては何故殺してくれないのかと、疑問で頭があふれかえっていた。


「ときに人間、見れば分かるとは思うが我が身は生物と言うくくりには無い。」

「それは…わかる…けど………。」

「うむ、話を続けるが、そなたは付喪神つくもがみと言う存在を知っておるか?」

「ファンタジーやフィクション…で妖怪や神様みたいに描かれてるもの…かな。」

「ううむ?ふぁんたじー、ふぃくしょんは聞いたことが無いが、認識はそうだな。妖怪や精霊…神といったこの世の者ではないとわかればいい。」


 ツクモガミ…付喪神とも九十九神とも表記される存在は、百年…それほど長く有った器物に精霊や魂が宿り、転じて妖怪とった物である。


「して人間よ、そなたは職人が作った物には魂が宿る。と言った事も聞いたことは無いか?」

「聞いたことは…あるけど…。」

「つまりは、そういうことなのだ。職人の作品には魂がこもり、うつわには想いと念と意志と色々な心が宿る。それが九十九年と一年、いやそれ以上に長らく大切にされたのならば物も化けるのだ。」


 大きなヤモリの形をしている化け物は、後ろや周りの炎を雨粒が反射させ、キラキラとした煌めきに彩られる。

直幸には、いつの間にか大雨の音が小さくなったような気がした。


「そなた、これは聞いたことがあるか?物の怪や神に真名まな…名前を知られてはいけないと言うことを。」

「そ…れは…知らない…。」

「ふむ、まぁそうであるだろうな。知られたのちにどうなるかも分からぬだろうから教えてやるが、力強き存在が弱き者の真名を知る事ができればその本質を…魂を支配でき、呪い殺す事もできるのだ。」


 うなずくヤモリに、直幸は思考する。

付喪神という妖怪、その存在に名前を知られてしまう事…直幸は青白い顔をさらに青くさせる。

ヤモリは生物ではないと話し、その後に付喪神の話題を出した。


 そして直幸は自分の名前を、この目の前の化け物に名乗ってしまった。


「我が身は付喪神であり、この豊結窯にて長きにわたり使われた登り窯の窯守かまもり…窯を守護する神である。加藤 直幸、そなたの魂を握らせて貰った。」

「そ…んな...!なら…俺を呪い殺してくれる…のか?」

「すぐには殺さぬ。」


 顎を鷲掴わしづかんでいた手を離し、ヤモリはそのまま直幸の左肩を強くつかむ。


「そなたには、妻を探す足になってもらう。」

「なっ…………!?」


 直幸はヤモリの言葉に目を見開き、ヤモリはその姿を見てニヤリと口を愉悦ゆえつに歪めた。


「我が身にはついの存在が居ると言っただろう?我が身は元々 夫婦盃めおとさかづき…大小一対の酒盃しゅはい、その大きい方の酒盃である。妻は美しい酒盃であったがゆえな、この地を荒らしに来た盗人ぬすっとに盗まれてしまった…。我が身はここから動くことが出来ぬため、迎えに行くことを諦めていたが…。」


 ククッと留めていた笑いが漏れ出たような声が、ヤモリから聞こえる。


「死をほっしているのなら、その命、らぬのだろう?ならば我が身の為に使うが良い。我が身が宿り、豊結窯を離れ、この世に留まるためのくさびとなって、我が妻を探すのだ。」

「嫌だ...!俺は、もう死にたい、のに…!」

「言っておくが、拒否権はもうないぞ?」


 拒否権は無い…と宣言された直幸は、何故なぜだと思った。

何故、死ぬ為に迷っていたはずなのに、そんな事をしなければならないのかと。

すぐにここから離れ、そして別の場所で自殺をすればいい…そう思っていた。


「そなたの魂を握ったと、言っただろう?そなたの所有権は我が身に有り、我が身から離れる事も、勝手に死ぬ事も許さぬ。我が身が命じた通りに生きるがよい。」


 直幸は拘束された手から離れようと抵抗を始めるが、時既に遅く、ヤモリの指は直幸の手を逃さぬように強く強く絞めた。


「さぁ、まずはその身に取りかせて貰おう。」


 突然、ヤモリの身体は炎のごとき揺らめきへと戻り、直幸の身体を包みこんでいく。

崩れたそこから出ていた炎もまた、ヤモリがへんじた炎と一緒に踊り渦巻うずまき、直幸へ覆いかぶさる。

雨で冷え切った彼の体には焼けるような熱は耐えきれず、熱とともに染み込んだ、自分とは別の存在感が燃え立つのを内側で感じながら、直幸は気を失った。


 あたりの夜闇は光源を失いより濃く、木々の深緑もまた闇に沈んでいく。


されど荒天はその雨脚を弱め、次第にその天候は好転していくだろう。




















 何処いずこか、豊結窯ほうゆうようのある山中から離れた、とある町の、とあるふるびたアパートの一室。


 春に近いが、まだ寒さでこごえる季節の早朝、ヒヤリと冷たい風がヒュウヒュウと音を鳴らして、外を踊り回っている。


 本来はニスが塗られて艶めいた色をしていただろう、古びて所々塗装がげている木造の窓枠の隙間から風が入り、ほのかに暖かい朝の爽やかな白い光が、フワリと隙間風になびくレースのカーテンを照らしていた。

あまり開けられていないのか、部屋には空気中に白いホコリが舞い、漆喰しっくいのような少し赤い土色の壁には染みなどの住人たちの歴史が刻まれている。

日焼けした枯草かれくさ色のたたみは一部がささくれており、この場を少し寂しくさせているようだ。

仕事へ行く為なのだろう黒いリュックサックも、へたれながら壁にもたれかかっていて、散乱したゴミ袋に入っていない屑やゴミが、所々に足の踏み場を残して部屋に散乱し放置されている。


 その汚くなっている部屋に、眠るだけの為にかれたようなへたった敷布団しきぶとんがあった。


 そしてその上に、一人の男…直幸がぐったりした様子で横たわっている。

濡れていたものが乾いた感じにシワシワになった白色のシャツ、チャコールグレーの泥や血で汚れたヨレヨレのズボンに、蒼白そうはくなやつれた顔。

頬や腕の見える範囲内にはり傷が目立ち、男の右手首には何かに握られた様に、赤いあとが付いていた。


 彼の顔の目元は、泣き腫らしたように赤くなっている。


閉じられた目蓋まぶたふるえ、重そうに直幸の目が開いていく。


「……ここ、は…俺の…?」


 直幸は重い痩身を上半身だけ起こし、自分が居た場所を見て呆然ぼうぜんとする。

辺りを見渡しても、そこは自身が寝る為だけに帰っているようなアパートの自室で、直幸は思い起こせど目が覚める前に自宅へ帰った記憶が無かった。


「俺は、死ぬ為に山に行って…………なんで、ここに居るんだ?」

「それは、我が身がこの体に命令したからだな。」


 といの答えが、聞き覚えのある声とともに隣から聞こえ、恐る恐るそちらへ向くと、頭から尻尾までの体長が五十センチメートル位のヤモリが、二本足で畳の上に立っている。

白土はくど色の陶器の様な体に、エメラルドに似た緑色の大きなブチ模様、金色に塗られた割れ目に白い花の絵付け、そして一匹の黒龍が踊るその姿は、まごうこと無く昨夜あの山中の廃墟で出逢った化け物であった。


 掴まれた右手首の痛さ、焼けるような熱気、揺らめき燃える炎のあか、チラチラと火の粉が暗闇を彩る風景が脳裏によみがり、直幸は思わずヤモリから逃れるように後退してしまう。

口から声が出ないのか空気のみが吐き出され、音が無いままにパクパクと動く事しか出来ていない。


 その直幸の姿を、ツヤツヤとした黒い眼でヤモリはしっかりと彼の事を見ていた。


「気を失っていたからな、そなたの体に〈住んでいる我が家へと帰宅せよ〉と命じたのだが……。徒歩で帰路についたがとうげも幾つか越えておったし、帰宅に二刻半もかかっていたぞ?むしろ、よく豊結窯の窯跡かまあとまでたどり着いたな?」


 二刻半にこくはん…現在の時間に換算すると五時間程になる。

歩いていくには遠い所からわざわざ来たのかと、感心したように黒い瞳を直幸に向けあおぎ見るヤモリに、ハッと思考が戻ったのか直幸はヤモリに詰め寄った。


「なんで…なんでここに居る……!?」


そのいに、ヤモリはキョトンと不思議そうに目を丸くする。


「何故、と言われてもそなたに憑いているからだが?言っただろう、妻を探す為の足になってもらうと。」


 ヤモリは直幸に近付き、太腿、腰、背中を伝い右肩へとスルスル登る。

服越しからではあるが体を這う感触に直幸は払おうと左手を肩の方へ伸ばすが、ヤモリは動きもせず声を発した。


「〈加藤直幸かとうなおゆき〉、そなたは我が身を許可もなく離すことを禁ずる。」


 自身の名前からつらなる命令を聞き、直幸は伸ばしかけた手をその場で硬直させた。

身体はピタリと固まり、しかしながら無理に動かそうとしているのか、ちゅうに留まっている左腕は震えている。


「どうして…!?」

「そなた、まだわからないのか…何度も言っているだろう?そなたの真名を知り、魂を握って支配していると話したはずだ。我が身の声を聞き、我が身の言葉に導かれ、我が身の命令を遵守じゅんしゅする。それがそなたの在り方になった、ということだ。」

「おっ……お前……!!」


 左腕を力無く降ろした直幸はワナワナと肩を怒りと恐怖に震わせ、両手を膝の上で握りしめる。

その姿を見たヤモリはヒラリと軽やかに右肩から飛び降り、まだカーテンの揺れている窓枠に飛び乗った。

カーテンが珍しいのか、薄いレースのカーテンと厚手のカーテンを物珍しそうに眺め、窓の枠で何かを探している。


「お前ではない。我が身の事はそうさなぁ……ハクバイ、ハクバイと呼ぶがよい。」


 ハクバイと名乗ったヤモリは、ハッと気付いた様に窓枠から目を離し、また直幸に向かいあう。


「あぁ、これも言っておかねば。〈加藤直幸かとうなおゆき〉、我が身の許可なく死ぬ事を禁ずる。」

「なっ!?」


 また一つされた命令は、直幸が欲してやまない物を禁止することだった。

死にたかった直幸には、この命令は地獄でしかない。

絶望に彩られた彼の顔を、ハクバイは何故そう命じられた理由がわからないのか不思議そうに見つめる。


「そなたは自殺願望があるからな、妻を探す足にするのに死なれては困る。」

「そんな…そんな…!!!」


 スルスルと器用に枠を移動してハクバイは窓の鍵を探し出し、おおよそ検討をつけてからカチャリとハクバイが知っている昔とは違う鍵を開ける。


「早速、外へ妻を探しに行きたいが…そなたもつとめがあろう?休暇の時に行こうではないか。でもまずは…空気を入れ替えて、この場を清めなければならんな。服も汚れておるから洗濯もせねばならんし…やることは沢山あるぞ。」


 五本の指を有する両前脚で窓のサッシを掴み、横へスライドさせていく。


 途端に冷たい朝の風が待ってましたと部屋に吹きすさび、積もっていたホコリが光を反射させながらキラキラと舞い飛んで、哀愁を帯びた部屋が神聖な場所になったようだと感じた。

古びて所々剥げている窓枠も、白色のレースのカーテンもその全てが神様を祀るための祭壇さいだんのようだと思い、呆然と直幸がその風景を眺める中、ハクバイは逆光の中、しっかりと自身の隷属れいぞくとなる者の目を見ていた。


「この部屋はとても汚い、これでは良い気も入りにくいというものよ。清々しく整えられた場所には、良い気も集まる。良い気が満たされれば、自ずと縁も巡ろうて。」


 雲は無くただ晴れ渡る青い空に、白いレースのカーテン、逆光のハクバイの影、金の割れ目が縁取るように光を反射して輪郭りんかくがキラキラと輝いて見える。

その神々しいハクバイの姿に、直幸は思わずまぶしげに目を細めた。


「これからよろしく頼むぞ。」


 ヤモリの様な大きな口を持つ姿ではあるが、直幸はその時にハクバイがニヤリと笑みを浮かべたような気がした。









第一話 了



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