#9
大家さんから仕事を紹介してもらったあと。彼女から他のアルバイトは辞めておいてほしい、と言われていたこともあって、今のバイト先にそのことを報告しに行った。
正直、もう少しひと悶着あるかと思っていた。なにせ、あそこのコンビニは店員がかなり不足していて。頻繁に俺が緊急で出勤するというようなことがあったりしたからだ。……まあ、そういった関係もあって、手当という名目で給金に多少色を付けてもらったりしたことはあるんだけど。
「案外、あっさり辞めれちゃったなあ」
結果、店長から返ってきたのは「いいよ」の短いひとこと。
正直、かなり拍子抜けだった。最悪泣きつかれるところまで想定していたが、そんなことはなかった。
店長は俺より一回りほど年齢が上の女性で、髪を亜麻色に染めた彼女は、初めて会ったときの印象はカッコイイ、であるとか、どちらかというと怖い、というものだったが。仕事として付き合っていく上で、そのイメージが間違っていることを理解した。
店員には舐められてるし、メンタルが弱ってるときは泣きながら休憩室でジュースを呷ってるし(お酒は全く呑めないらしい)。ついでに、なにか困ったことがあれば、比較的ちゃんと言うことを聞いていた俺に電話して頼み事をしてくるし。
というか、そういう意味合いで言うならば。ヘルプで入ってくれって言ってくるときの店長のほうがよほどみっともなく泣き落とししに来ていたように思える。
だからだろうか。本当に、驚いた。まあ、なにごともなく辞められることについては、それに越したことはないので構わないのだけれども。
「人手の都合が付きそうなのかな? ……にしては、話が終わったあと、ブツブツとこれからどうしようって呟いてた気がするけど」
あれでは、俺が帰ったあと。またジュースを泣きながら飲んでいそうである。
なんだかんだで高校生になってから一年の間、お世話になっていた店長ではあるので。それなりに情というか、そういうものが沸かないでもないが。……まあきっと、店員からイジられつつもなんだかんだでやっていけるだろう。
舐められてはいるものの、他の店員から好かれてはいるし(それはそれとしてイジるが)。イザとなったら恥も外聞も気にせずに泣きつくあの店長なので、いいところでうまい落としどころができるだろう。
「それよりも、今日の夕飯はどうしようかな」
どうしよう、と言っても。作るのは俺ではない。
雲雀さんに教える料理をどうしようか、という話である。
作るのは彼女なのでそれに合わせてなんとか都合をつけようと思っていたのだが、もし俺が食べたいものがあるのなら、ぜひ、と。そう言われてしまった。
両親と暮らしているときは、家にある食材やその日のスーパーで安かった食材で適当に都合をつけることが多かったから、意外にも「これを食べたい」というように思ったことは少ないな、と。そう自覚しつつ。
……いや、俺がもっと幼い頃はそれなりに裕福ではあったために、その頃であればいろいろ好きなものを言っていた記憶はあるが。しかしながら、今となっては覚えていない感覚である。
「うーん、まあ。とりあえずスーパーに行きつつ、安そうな食材を見て決めるかぁ」
結局、今までの暮らしに近いような思考をしてしまうあたり。やはり癖というのは簡単には抜けないのだなあ、なんて。そんなことを思うのだった。
その日は鶏もも肉が安かったため、チキンステーキになった。
個人的には唐揚げも捨てがたかったが、揚げ物は少し手順が面倒だし、一気に揚げ油が汚れるのでまたの機会ということで。
雲雀さんと夕食を一緒にとったあと。早々に自室に戻ろうかとも考えたのだが、彼女からせっかくですし少し喋りませんか? と、そう提案されたため。その言葉に乗ることにした。
どうせ、自室に戻ったところで特段これと言ってやることもなければ、なにかを話す相手もいないために。ちょこっと寂しいし。
なんてことはない談笑を彼女と交える。そんな時間が、とてつもなく幸福に感じる。
前の家に住んでいた頃は、両親とこうして話すことはあれど、ふたりともどこか疲れているような、あるいはなにやら考え事をしているような、そんな風体だったために。楽しく会話、ということはあまりなかった。
そういえば、両親は元気にしているのだろうか。
まさか俺を置いて蒸発するだなんて思ってもみなかったが。しかしながら、なんだかんだで十六歳になるまで世話になった人間である。あまり、不幸になっていなければいいけれど、と。
「……さん、悠也さん!」
「うん? ええっと、どうかしたか?」
「ああ、やっと気づいてくれました。なにやら上の空で、呼んでも反応がないものですから」
どうやら、俺が両親のことについて考え事をしている間、雲雀さんはこちらに話しかけようとしていたらしい。
しかし俺が全くそれに気づかなくて、と。……なんとも、悪いことをしてしまった。
呼びかけに答えられなかったことに対して俺が謝罪をすると、彼女は大丈夫です、と。そう言ってから。
「たしか、悠也さんには私がひとり暮らしをしているのは社会勉強のため、と言っていましたよね?」
「たしかに、そうだったな」
俺が苦し紛れでついた嘘にたいして、彼女が目を光らせながらに食いついてきたことは記憶に新しい。……というか、数日前の出来事だから、新しくて当たり前のはずなのだけれども、その数日があまりにも濃密すぎて、少し感覚が麻痺しているように感じる。
「それでですね、私、アルバイトをやってみようと思うんです!」
「……ほう、アルバイト」
「自分自身でお金を稼ぐ、という。それをやってみようと!」
なるほど。たしかにそれもひとつの社会勉強ではあるだろう。
たしか雲雀さんも部活などには所属していないため、アルバイトをする時間もあるだろう。
「仕事内容としては、掃除らしいんですけど。一緒にやってくださる方がやり方も指導してくれるそうで」
「へぇ、それならば安心できるね」
なんか、聞き覚えがあるような気がするけど。多分気のせいだろう。きっと気のせいだろう。
俺も最近、清掃を主とする仕事に就いたばかりで、ついでに雇い主、もとい大家さんからは、掃除が得意でない同僚の指導も頼みたい。とそう言われているが。ただの偶然の一致だろう。
「でも、そうなると夕飯の時間とかも調整が必要かな?」
「それについては、問題ないですよ! とても都合のいいところを紹介してもらったので!」
ふむ。なんだろうか、デジャヴを感じる。
……ただひたすらな考え過ぎだろうと、そう結論付けたいのだが。どうにも彼女の話す内容に聞き覚えのある条件が多い。
「私、頑張りますね!」
「あ、うん。頑張ってね」
思わず、反射的にそう答えてしまったが。
はたして、彼女の言った頑張るというその言葉は。ただ単に奮起の言葉として放たれたものなのか。それとも、理由あって俺に向けて言い放たれたものなのか。
その答えについては。翌日、知ることになる。
大家さんから、連絡があった。
清掃の状況については今のところ問題はないが。以前に伝えられていた、もうひとりの仕事仲間についてが、今日から仕事に当たるので、できれば今日は出て欲しい、と。
まあ、言われずとも毎日それなりにやっておくつもりだったので、掃除用具入れからホウキとチリトリとを取り出して、先に掃除を始めていると。
しばらくして、こちらに駆け寄ってくる足音が聞こえた。
「悠也さん、こんにちは!」
「……こんにちは、雲雀さん」
もしかしたら違うかもしれない、なんて。そんな期待は抱かないに越したことはないな、と。そんな現実を思い知りつつ。
驚く様子もなく、雲雀さんがそう言う。そんな彼女の手に握られているのは、ホウキ。
まあ、予想通りというべきか、なんというか。俺がここにいるということに疑問を抱かないのであれば、やはり昨日のあれは、知っていて言ってきたのだろうとそう確信する。
「俺が一緒だって知ってたのか?」
「はい、大家さんから教えてもらいましたので!」
まあ、それはそうだろう。というか、話の流れとしては非常に順当だ。
そもそも、雲雀さんは社会勉強としてひとり暮らしをしているとはいえ、神宮寺グループの令嬢であることを考えると、どこでも大丈夫、というわけには行かないだろう。
そうなると、それなりに関わりのある場所に住むことになるはずだ。
つまり、ここの大家さんは神宮寺グループとそれなりに関わりがあるということで。雲雀さんがなにかしら相談をするとなれば、彼女にするというのは妥当な話だ。
「私にもなにかできる仕事がないかと探していて。大家さんにも相談していたんですが。昨日、いい仕事があると教えていただきまして」
なるほど。これで話の流れに少し合点が行く。
雲雀さんが仕事を探していたが、下手な働き口を紹介するわけには行かない。だから、どうにか都合よく斡旋できるところがないかと考えていたところ、自分の管理物件の清掃を頼もうとした。
しかし、本人が家事能力に不安がある、ということでそこで行き詰まっていたが。そこにちょうど雲雀さんの知り合いであり、清掃ができる俺がいて。そしてそんな俺はお金に困窮していて。
都合よく、ふたりまとめて雇ってしまえば、全員幸せだろう、と。
……まあ、経緯はどうであれ、真っ当にお金が貰えるのであれば俺としては問題ないけれど。強いて言えば、少し説明があればよかったなあ、くらいは思わなくもないが。
とはいえ、実質的には大家さんと。そして雲雀さんのふたりがいたおかげでこうして高待遇の仕事にありつけたので、幸運だろうと、そう言える。
「悠也さん、料理だけでなく、掃除についても厄介になりますが。どうか、よろしくお願いします!」
「うん。よろしくね。……とは言っても、普段の掃除自体はそんなに手間でもないし、難しくもないんだけどね」
それこそ、高校や、あるいは小中で行ってきた掃除と大差ない。仕事ではあるから、それらよりかは断然丁寧には行うものの。逆に言うとその程度である。
変わってくるとするならば、大家さんから事前の説明であったとおり、どこかに出向いて清掃をするときだろう。
場所によってはこのアパートのように外廊下があるだけ、というわけではないだろうし。そうなってくると、少し違った清掃が必要になる可能性はある。……まあ、そうであったとしても、掃除である以上、それほど複雑になることはあまりないだろうが。
「それじゃあ、とりあえず掃除していこうか」
俺の声を皮切りにして、ふたりで清掃を始めていく。
特にこれといって難しいことも、大変なこともないために、そこそこに会話が弾む。
「そういえば、ここ、俺たち以外の住人の人って見たことないけど。他に誰か住んでるのかな」
「どうなんでしょう? 私は見たことないですし。生活音なんかも悠也さんのもの以外聞こえたことはないですが」
「生活音……ああ、そういえば結構壁は薄いもんね」
設備系統がかなりしっかりしているために失念していたが、このアパートはしっかりとしたボロアパートではある。
風などが吹き込まないためにそのあたりは非常にありがたいが、その代わりにと言ってはなんだが、壁はそこそこに薄い。
それこそ、隣の部屋の雲雀さんの鼻歌なんかも聞こえてきたことがあったりして。……それ以来、あまりそういったプライベートは気にするべきではないと意識から外しているが、それでも時折、声が聞こえてくる。
軽くヒビなんかも入ってるし、あまり強い力をかけないように、と。いちおう心がけてはいる。いやまあ、さすがに壊れたりはしないと思ってるけどね。
「そういえば、毎度毎度悠也さんが私の部屋に来るのに、一度外廊下に出ないといけないの、手間ですよね」
「まあ、それくらいなら大したことないので問題ないから気にしなくていいよ」
「隣の部屋ですし、壁を取っ払ってしまえれば楽でいいのかもしれませんね」
「賃貸では不可能じゃないかなあそれ」
突然とんでもないことを言い出したぞこの令嬢。というか、俺は問題ないって言ったんだけど、話がなかなか通じてない。
「ほら、えいって押したら、割と簡単に壊せそうじゃありません?」
「やめとこうね? そういうことは」
薄い上にヒビが入っている壁。万が一にもないとは思うけど、その万が一がありえてしまったときが本当に怖い。
ブンブンと軽くパンチをする素振りを見せる雲雀さんに。……彼女の力で壊れることはないと思いたいけれど、それでも試しに、なんて。試しに彼女がやってみないようになんとか宥めていると。ちょうど、ひと通りの掃除が終わる頃合いだった。