#8
「……すみません、とてもありがたい話なんですけど、遠慮させてください」
「理由を、伺ってもいいでしょうか」
大家さんは、ほんの少し低いトーンでそう尋ねてくる。まあ、当然の反応だろう。
俺は小さく息をひとつ吸い込んでから、話す。
「先生から学費のことを話されたときに、退学するにちょうどいいタイミングかな、とそう思ったんです」
もちろん、大家さんの言うとおり、せめて高校は出ておく方がいいということは十二分に理解した上で。
しかしながら、現状の俺には、絶対的に生きていくためのお金が足りない。
「自分自身の生活費を稼ぎながらに、学校生活も続けて、というのは。正直、厳しいどころかほぼ不可能だろうな、と」
高校生でできるバイトなど、たかが知れている。
そんな環境下で。現在は平日に二、三時間。休日に八時間。無論、現在は毎日やっているわけではないが、それを毎日ペースに増やして。平日をもう少し多く時間をとったとしても、さてそれで十分な稼ぎになるかというと、かなり苦しいだろう。
その上で学校生活も同程度に維持していく、というのは土台無理な話だ。
だからこそ、この機に、というのもなんだかなあという話ではあるものの。どうせ学費も払えないのだから、さっぱりやめてしまったほうがいいだろう、と。
俺はそういった事情について、簡単に纏めつつ大家さんに伝える。
なるほど、と。顎に指を当てながらにそう言う彼女は。しばらく考え込んだ、その後に。
「広瀬さん。聞きたいことがあるのですが」
「はい、なんでしょう?」
「掃除は、できますか?」
はて。どうして突然そんな話になったのだろうか、と。
だがしかし、聞かれたからには答えなければならないだろう。答えとしては、イエス、ではあるだろうが。とはいえ、あくまでやれるにしても人並みではある。
「いちおう、それなりにはやれますけど」
「そうですか、それでは、こういうのはどうでしょうか」
「自身の生活費を稼ぐために、広瀬さんはおそらく、退学の方を選ぶと思います。たとえ、学費がなんとかなったとしても」
「うっ、それはたしかに、そのとおりですね」
春恵のその言葉に、すっかり失念していた問題を思い出す。
学費の問題は、あくまで金銭問題のその一面でしかない。彼の経済事情は、その程度ではすまない状況になっているのだ。
なにせ、本来扶養の立場にいるはずの彼を養う人間がまさかの揃って夜逃げである。
私としてはそちらのほうが困った事情になるが、仮に二人揃って消えるのであれば、いっそ彼も一緒に連れて行ってあげたほうが、悠也くんは助かっただろうに。私としては、困るが。
「学業との両立も、絶対的には不可能ではないでしょうが、どちらにせよ、バイトの時間を増やすことは必須でしょう」
「それはだめです! 私が彼と交流する時間が減ってしまいます!」
ただでさえ、彼との夕食を勝ち取ったばかりなのである。それなのに、その時間が奪われかねない。あるいは残ったにせよ、その後のゆったりイチャイチャタイムが無くなってしまうなど、赦されるわけがない。
「私から、直接お金の支援はできませんし。いっそ、時間が増やせないのなら、給料が高くなればいいのですけど。ははっ、いっそ今のバイトもやめて、私とお話するというバイトを彼に持ちかけてみますか? 今の五倍の金額で」
無論、金額は適当だ。必要なのなら、もっと高くしてもいい。それで、彼の生活を間接的に保障できるのならば。
なんて、そんな冗談を話して。春恵も、それに対して呆れた様子で息をつきかけて。
しかし、そこで彼女は「……待ってください」と。
「えっ、どうしたの? 春恵」
「存外、悪くはないかもしれません。もちろん、雲雀様の言った仕事内容ではだめですが」
「なんでよ! 私の私利私欲だから?」
「いえ、広瀬さんが受けないだろうな、と」
言われて、自覚する。うん、たしかに仕事ではないか。
「なので。あくまで正規の仕事として。……体裁としては割のいいバイトとして、広瀬さんに斡旋するのです」
「……ええっと、つまり、このアパートの掃除をするバイトをしないか、ということですか?」
「もう少し正確に言うならば、掃除というよりかは総合的な雑務になりますね。また、仕事先がここに限られるわけでもない、ということは先に前置いておきます」
聞けば、大家さんが関連している施設、もしくは知り合いの建物なんかが他にもあるらしく。そういうところに出張的に行ってもらう可能性もある、と。
まあ、ここの管理だけではたしかに生活は行き届かないだろうし。他がある、と言われると納得はできる。
「維持管理に掛かる手間は当然建物が多ければ多いほど掛かるものですし。ちょうどどこかに委託しようかと考えていたのですが。それならば、広瀬さんにお願いしようかと」
「なる、ほど」
「お願いする仕事の都合、今されているアルバイトについては辞めていただかないといけない可能性が高いのですが。その代わりといってはなんですが、金額の方は十分な生活が行き届くようなレベルで提案させていただこうかと」
大家さんはそう言うと、戸棚の中から就業規約を引っ張り出してくる。準備がいいなあ、と。そうも思ったが、そういえば委託しようかと思っていたらしいので、用意していたのだろう。
どうぞ、と。そう言われるままに俺はその就業規則を受け取って。そして、目を疑う。
「あの、えっと。この金額、合ってます?」
「はい、もちろん。……もしかして、少ないですか?」
「少ないなんてそんな!」
むしろ、疑っていたのはその真逆。
たしかに大家さんは今のアルバイトを辞めないといけない代わりに割がいい仕事、と。そう言ってはいたものの。それにしても、高過ぎる。
就業規則に書かれている給金は、時給ではなく月あたりの固定給。なので、それを見れば理解ができる。この金額があれば、生活が成り立つ、ということを。
それくらいに給料が良い。それこそ、大家さんは今やっているアルバイトを辞めなければいけない、とそう言っていたが。その条件を飲み込んた上で、尋常でない程に割がいい。
ここの賃料は、一万円だ。それについては、俺が入居を決める理由にもなっているし、そしてありがたいことに一人になってしまった俺が現在もなんとか生き繋げている理由になっているのだから、間違うことはない。
その家賃を。日数換算にして一日から二日程度で稼ぎ切ることができる。そのレベルであるので、たしかに、俺の生活は成り立つ。めちゃくちゃにありがたい話、ではあるのだが。
が、それと同時に。少し疑問が浮かぶ。
「それで、採算は合うんですか?」
そう。ここの賃料は一万円なのだ。一ヶ月で一万円である、それよりもずっとずっと高い固定給を毎月払っていては、吐き出す支出の方が多くなるだろう。
なんなら、ここの家賃を全てかき集めても一ヶ月あたりの給金に届かない。
まあ、雲雀さん以外の入居者は見たことないから、いるのかどうかわからないけど。でも、一万円の戸数倍が最大のはずなので、足りないことはわかる。
「広瀬さんは優しい方ですね。その点についてはご安心ください。先程も言ったように管理しているのはここだけではないので、収益については十分あるのです」
彼女はそう言いながら、ついでに、と。
ここの家賃が特別安いのは、見ての通りの理由なので、と。そう付け加える。
つまるところが、他のところからは十分な利益が出ているため、この金額を払って雇っても問題がない、と。
「……なんていうか、その恩恵を与ってる俺が言うのもなんですけど。ここのアパートを手放したほうが、結果的には利益が上がりそうですよね」
「ふふふ、それはそうかもしれませんね。……ただまあ、なんといいますか。先任の方の意向もあって残してるんですよ」
「それはまた、貧乏くじを引かされましたね」
「まあ、それはそうなんですけれど。それと同時にあたりくじも頂いているので、トントンといったところでしょうか」
たしかに、ここのほぼ赤字運営と言っていいアパートを維持しつつ、人を雇う余裕があるくらいには他で補えている、となれば。なるほど、たしかに幸運のくじもあったのだろう。
「まあ、正直疑ってかかる気持ちはわかります。怪しさしかない条件、というのも自分で提示しておいて、理解していますから」
苦笑いしながらにそう言う大家さんに、俺も同じくして、ははは、と。力なく笑う。
疑ってしまっている、というのはまさしく事実である。
とはいえ、疑問に思ったことは訊けばキチンと答えが返ってくるので、実際の警戒度としては、かなり引き下がっている。
例えば、仕事の時間に関して決められた時間が指定されていないが、それに関しては俺の学校生活なんかも加味した上で、できる時間の範囲で行ってくれればいい、ということが一つの理由。極端にずっと掃除を行わず、荒れているようであればさすがにという話らしいが、しっかりと現状維持できていればそれ以上は必要ないという。
そして、もう一つの理由は。大家さんが最初に提示していたように、掃除だけに留まらない仕事をする可能性があるから、というものだった。
曰く、例えばこの見た目の古さからもわかるとおり、ガタが出る可能性が否めないわけで。その際に適宜修理などを手伝ってもらう可能性がある、と。また、他の管理する施設に出向いて、そこで掃除なんかをする可能性もある。だから、時間で縛ると不都合が出る可能性がある、とのことだった。
そういう不測の事態になることもあり、柔軟に仕事を回していくことも予測されるために、給料も高く設定している、と。
それにしても高い気はするのだけれども。実質的に必要なときに利用できるお手伝いさんとしてみるのならば、そんなもの、なのだろうか? そういうものを利用したことがないので、俺には相場がわからないのだけれども。
……まあ、俺にとってはありがたい話なので、深く追及する必要性も、あまりないだろう。
「それで、どうでしょうか? 学費の話と、それから、仕事の話と」
大家さんが、改めてそう訊いてくる。正直、そのどちらも俺にとってはあまりにもありがたすぎる話で、いずれにしても断る理由がどこにもなくて。
けれど、と。……ここまでいい条件なのだから、相手の機嫌を損ねないうちに受けてしまう方がいいのだろうと言うのはわかっているのだけれど。でも。ひとつだけ確かめておきたいことがあって。
「どうして、そこまで親切にしてくれるんです? 事実上には、赤の他人のはずである、俺に」
ここまでしてくれる、その、理由。それが、大家さんには無いように見えるのだ。
これが知己の仲である誰かのためであるとかであれば話は別なのだが。出会って数日もいいところの、アパートの入居者と大家である。
ここまでの話が、俺にだけ一方的に都合がよく、大家さんが割を食わされ続ける話に見えるのだ。……無論、その提案をしているのは、大家さん本人なのだけれども。
だからこそ、どうしてそこまでしてくれるのか、と。そう思ってしまうのだ。
俺のその質問に、彼女はジッとしばらく考え込んでから。そうですね、と。そう切り出して。
「私の知り合い……恩人ならばそうするだろう、と。そう思ったので」
つぶやくようにして言われたその言葉に。俺はそれ以上はなにも言わなかった。
全てを理解したとは言わない。しかし、それだけで十分だった。
直接的にお世話になる、大家さんに。そして、間接的にではあるものの助けられた、顔も知らないその恩人に。感謝をしつつ。
「ふたつとも、こちらからも、お願いしてもいいでしょうか?」
俺は、そう言った。
その言葉に、大家さんはニッコリと笑って。それでは、これからよろしくお願いします、と。そう言って下さった。
「ああ、そういえば。仕事の方の話なのですが、ひとつだけ――」
「春恵にそんな恩人が居ただなんて知りませんでした」
悠也くんとの話が一段落ついたということで、私が春恵の部屋に訪れて。事の経緯などについてを聞いていた。
「アレに関しては半分は事実、半分はその場しのぎのでっち上げですよ」
「そうなの?」
コクリと頷いた春恵は、そのまま真っ直ぐにこちらに視線を向けつつ。雲雀様ですよ、と。そう言う。
「……へ?」
「他の誰でもありません。雲雀様が、広瀬さんのことを助けようとしている、というその事実について。美化や誤魔化しを含めつつに言ったということです」
「なるほど。……では、でっち上げあげたのは?」
「恩人、の部分です。知り合いを引き合いに出すには、理由として不十分かと考え、咄嗟に言い換えました」
その説明に、私が納得しかけて。しかしながら、うん? と。
私が改めて春恵に視線を投げ返すと、気まずそうにしながら、彼女はそれを反らして。
「雲雀様に恩がある、というのはもちろんそうなのですが。それと同等くらいに、いろいろと厄介事を引き受けさせられているので」
「うぐっ、それを言われるとなんとも否定しづらいのだけれど……」
実際問題として、彼女のことは今までもわがままを言って振り回し続けてきたし。今だって私の暴挙ともいえる行動に付き合ってここにいてくれている。
少しの間、お互いに気まずい空気が流れる。
このままではどうにもならない、と。私は思い切って話を引き戻す。
「とにかく、これで金銭事情が改善された、ということでいいのよね?」
「はい、ほぼ問題がないかと。それこそ、余程の贅沢を願わなければ十分に成り立つはずです」
そもそも夕食費については私と一緒に取る都合、ここで相殺が利く。それ以外についての補填だけでいいので、あれだけの金額を月あたりに補助すれば問題はないだろう。
「しかし、条件として今のアルバイトを辞めていただく、としたのはいいけれど。それにしても結局今までやっていたアルバイトの時間がこの仕事に置き換わるだけだから、自由時間があまり増えていないのですよね……」
「一部、聞かなかったことにしておきますが。それについては雲雀様の判断次第では、問題ないかと」
春恵のその言葉に、私は首を傾げる。
そんな私に向けて、相変わらずの真面目な表情のままで、彼女は告げる。
「この仕事は、こちらから提示した仕事ではあります。なので、ある程度は自由が利きます。そして、その上で広瀬さんには、このように確認をとっています」
――もうひとり、一緒に仕事をしてもらう人が増えるかもしれませんが。それでも、大丈夫ですか、と。
「掃除がそれほど得意ではない人なので、その指導も含めての仕事になるかもしれない、と。広瀬さんにはそう訊いて、彼からは肯定の返事を頂いています」
その意味するところは、言われずともわかる。
本当に、私は優秀な従者を持ったものだ。無茶ぶりに付き合ってくれるし。その上、こうして私にとって都合がいいように配慮してくれている。
「あとは雲雀様がどうしたいか、です。どうしますか? 家事が苦手、という設定のお嬢様?」