#17
「はい! あなたの雲雀です!」
「ええっと、なんで雲雀さんがここに?」
名前を呼ばれたことが嬉しくって、思わずとんでもないことを口走ってしまったが。どうやら熱で朦朧としている悠也くんは気づかなかったらしい。
まあ、気づいたとしても別に問題はないのだけれども。
「悠也くんが風邪を引いてしまったと聞いたので、看病をしにきました。……その、鍵は大家さんに事情を話して借りてしまいました」
悠也くんは春恵に頼んで学校に欠席の連絡をしている。ならば、事情の繋がりとしては不自然ではないはずだ。
悠也くんは、そっかあ、と。そう納得した様子を見せながらに「あれ、今何時?」と。時刻を気にする。
「ええっと、九時半頃ですね」
「……夜の?」
「朝のです。ほら、外も明るいでしょう?」
悠也くんはしばらく窓の外を眺めながらに考えて。そしてこちらに視線を戻して。
「雲雀さん、学校は?」
「休みました」
「だめだ――ゴホッゲホッ……」
「ああ、だめですよ悠也くん。まだ熱も高いんですから、しっかりと寝ていてください」
飛び起きようとして咳込んだ彼に、布団をかけて無理やり寝かせる。
きっと私が学校を休んだことに。自分が理由で私を休ませてしまったことに責任を感じているのだろう。
「ごめんね、あとで雲雀さんのせいじゃないから、心配しないでねってメッセージ送るつもりだったんだけど、その前に眠っちゃってて」
だからこそ、こんな言葉が彼の口から出てくるのだろう。
どこまでも本意が他人であって、どこか、自分が薄い。
悠也くんらしいと思うところではあると同時に、少しだけ、彼の嫌いな部分だった。
「いいえ、私のせいです。お出かけの提案をしたのも私、日取りの都合を決めたのも。そして、濡れている悠也くんの身体に気づくのが遅れたのも、私です」
「そんなことな――」
「いいえ。あるのです」
さすがに、相合い傘がしたくて折り畳み傘を隠したことは伝えられないが。
「だから、せめてもの私からの償いとして。私に看病をさせてはくれませんか?」
トントントントン。規則正しい音が、少し離れた台所から聞こえてくる。
どうやら、雲雀さんが看病しに来てくれているというのは夢ではないらしく。現在、お昼に向けて雑炊を作ってくれているようだった。
正直、スポーツドリンクの備蓄なんてものはなかったし、食事の類をどうするかは考えていたところなので、ありがたいといえばありがたいのだが。しかし、雲雀さんを休ませてしまっていることには変わりはないわけで。
しかしながら、
「悠也くんは病人なんですから。今は難しいことは考えずに、素直に甘えてくれていいんですよ」
と。そう言われてしまっては、断るのもしのびない。
じゃあ今日一日はお願いしますとそう伝えたのだが。治るまでかんびょうしますから! と、そう宣言されてしまった。
これは、なにがなんでも意地で今日中に治さなければならないようだ。
彼女が枕元に置いていってくれたコップにスポーツドリンクを注いで、ゆっくりとストローで吸う。
喉が程よく潤って、ほんの少しだけ身体の熱が落ち着いたような気がする。
そのまま布団にくるまって横になる。空いた扉の向こう側にはほんの少しだけ台所の様子が確認できて。そこにエプロンを身に着けた雲雀さんの姿が見える。
ちょっとだけ、安心する。
(しかし、ちょっと不思議な感じがするのは、気のせいなのだろうか)
ちょうどあんな夢を見たからだろうか。それとも、夢から醒めるときの俺を呼ぶ声が、夢と雲雀さんとで重なっていたからだろうか。
どこかで、彼女と出会っていたような。雲雀さんが、記憶の中の誰かと重なるような、そんな感覚に襲われる。
「……まさか、な」
そんな偶然はないだろう、と。そう断ずる。
たしかに合致する点は無くはないが、それと同時に矛盾する点もいくつかある。だから、ただの偶然の一致。たまたまだ。
そんなことを考えようとしていると、どうやら今の俺には体力が不足しているらしく。次第に瞼が重くなってくる。
今度は、ゆっくりと眠れそうだ。夢を見るとしても、きっと暖かな夢だろうと。
根拠はないけれども、そう思えた。
夜になる頃には、随分と体調も快復していた。
食事に関しては大事を取ってということで、雲雀さんが消化のいいものを用意してくれたが。匂いは鼻詰まりが微妙に解消していないために十分にとは言えないが、味の方はしっかりと感じ取れていた。
お昼ごはんに準備してくれた雑炊に関しては、体調不良によって鈍麻になっていた味覚や嗅覚であまりどんなものなのかを感じ取ることができず。せっかく作ってくれた雲雀さんに対して少し申し訳なくなっていた。
「雲雀さん、ありがとうね。あとはもう寝ていれば明日には治ってるだろうし、大丈夫だよ」
「いえ、そういうわけには行きません! 私もここで、悠也くんの様子を見ています!」
いや、それはそれで別な問題が発生しそうなのだが。
名目上では看病という目的がそこにあるとはいえ、高校二年生という年頃の男女が同じ部屋で夜を明かすというのはよろしくないだろう。
特に雲雀さんの場合は校内はもちろん、学外に於いても立場がある人間なだけに、そういう醜聞は避けるべきなはず。
だけれども、俺と雲雀さんとの主張が延々と食い違い、押し問答が続き。まだ万全とは言えない俺の体力ではそのまま彼女の勢いに押し負けてしまうのだった。
仕方なく認めた俺の前には、なぜか嬉々とした様子の雲雀さんがいて。
なぜそうしているのかはわからないけれども、楽しそうなのならばそれでいいか、と。
どうやら、いつも以上に思考が雑になっているらしい。
「それでは、悠也くん」
「はい」
「服を脱いでください」
「はい…………はい?」
聞き間違いだろうか。というか、仮に聞き間違いじゃなかったとしたら、安易に返事をしちゃだめだったと思うんだけれども。
そんな考えが頭の中に巡って、再度雲雀さんになんて言っていたのかを尋ねようとしたその瞬間。
その質問の必要性がなくなる。
「それじゃ、悠也くん。脱がしますね!」
「待って待って待って待って! なんで!?」
俺のシャツを掴んで引っこ抜こうとした雲雀さんを慌てて制止する。
なぜ? と言わんばかりに首を傾げる雲雀さん。それを言いたいのはこちらなのだが。
なんとか雲雀さんの組み付きを一旦解除して。改めて面と向かって話す。
「なんで脱がそうとしてるの?」
「その、悠也くんも汗をかいているでしょうし、身体を拭こうかな、と」
「……なるほど」
正直、今の体調であれば風呂くらいなら入れそうではあるが、用心するならば避けておくべきだろう。
特に、どうしてか、現状での場の主導権を握っている雲雀さんがここにいる以上、安易にそれを許してくれるとは思わないし。
それでもなお仮に俺が強引に風呂に入ろうものならば、最悪雲雀さんが介助しますとか言って風呂場に突撃してきかねない。……いや、さすがにそれはないか。ないよな?
ただ、そうしてきてもおかしくないような熱量を、今の雲雀さんからは感じる。
「わかった。それじゃあ身体を拭くから。濡れタオル貰っていい?」
「はい!」
「ありがとう。それじゃあ、一旦雲雀さんは向こうに行って貰って」
「はい! ……えっ?」
おや、さっきこんな流れがあった気がするぞ? ちょうど立場逆で。
「いや、拭き残しとかあったらだめなので! 私がやりますよ!?」
「いやいや、さすがにそれくらいは自分でできるから」
というか、それこそ別な要因で俺が再度熱が出てきてしまいかねない。
ここばっかりは正念場だろう、と。俺はなんとか彼女を別室に押し込むことに成功して、彼女から受け取ったタオルで身体を拭く。どうやら、新品っぽいタオルで。どうやらこのために買ってきたらしい。別に俺の部屋のタオルを使ってくれても良かったのに。
どうしてだかしょんぼりしていた雲雀さんだが。俺がタオルを返却すると、それをいそいそとカバンの中にしまっていた。
洗濯機ならこの部屋にも備え付けられているのだけれども。雲雀さんは自分の部屋の洗濯機で洗うようだった。俺の世話でかかったものなのだから、この部屋の洗濯機を使ってくれてよかったのに。
それから、歯磨きをして。雲雀さんと軽く談笑してから。体調のこともあるし、そろそろ休もうか、と。そんな話をしかけた、そのとき。
ピンポーン、と。無機質な電子音がする。
なんの音だろうと一瞬考えたが、すぐさまインターホンの音であると理解する。
そういえば、この家に来てからあれが鳴ったことは今まで一度も無かったか。
「あっ、私出ますね!」
「いや、大丈夫大丈夫。俺が出るから」
雲雀さんは俺の体調を心配して代わりに出てくれようとしたが、そもそも俺の部屋を訪れて雲雀さんが出てこようものなら訪問者がびっくりしてしまう。
というか、それどころか下手をすれば訪問者が変な勘違いをしてしまいかねない。……まあ、俺が訪問者の立場だったら、間違いなく変な関係性を勘繰るし。
俺は雲雀さんに、心配しないで、と。笑いかけてから、ゆっくりと立ち上がって玄関に向かう。
「しかし、誰だろ。こんな時間に」
正直なところ、心当たりがほとんど無い。
そもそも、この家を訪問してくる人に心当たりがない。
なんなら、俺がここに住んでいることを知っているのは雲雀さんと大家さんくらいなもので。……と、考えるなら。
「ああ、大家さんが心配して様子を見に来てくれたのかな。大丈夫とは言ったけど、一人暮らしの学生が体調不良で寝込んでるわけだし」
そう考えると、辻褄が合う。雲雀さんもそうだけれども、大家さんも優しい人だし。
そんなことを考えながらにドアノブに手をかけて、開こうとする。
その瞬間。後ろから雲雀さんの「待って、ダメッ!」という声が聞こえて思わず振り返る。しかし、彼女のかけた言葉が届くよりも先に、俺の身体は玄関を押し開く。
そして、改めて玄関へと視線を戻した俺は。
そこにいた人物に。思わず、目を丸くする。
「ああ、大家さんが心配して様子を見に来てくれたのかな」
悠也くんのその推測自体は、筋が通っていて、なんら間違いが無いように思える。
実際、彼の言うとおり学生が一人暮らしで体調不良を引き起こしたともあれば、心配になる気持ちも理解できる。
だがしかし、扉の先にいる人物が彼の言う“大家さん”でないことを私は理解している。
なぜなら、その“大家さん”という人物は、私の侍女である春恵だからだ。
なんだかんだと、侍女という立場から私の行動に対して諌めるような発言をすることのある彼女ではあるが。しかしながら、本質的には私のやりたいことを理解しており、基本的にはそれをサポートするように動いてくれはしている。
彼女が私に進言してくるのは、私の計画が感情が先行していて破綻していたり、うまく行かない可能性が高かったり。あるいは本当にダメなときであり。そうでない場合については、彼女の立場からでは本来見過ごせないことでも目を瞑ってくれる。
そんな彼女が、今回については自分からこの鍵を渡してくれたというのに。私に事前の連絡もせずに邪魔になりかねないこの場に訪問してくるとは考えられない。
では、誰がここに訪れているのか。
クラスメイト――悠也くんと仲のいい、彼の前の席の……たしか高橋と言ったか。彼なんかであれば、悠也くんが体調不良なことに心配して訪れるかもしれない。
だが、彼ではこの家の場所を知らない。だから、訪れることはできない。
では、先生はどうだ? たしか春恵にそのあたりの書類関係を正して貰ったときに悠也くんの住所をこちらに移してもらったので先生であれば知っているだろう。だが、わざわざ一日休んだ程度の生徒に訪問してくるほど、先生は暇ではないだろう。
なにせ、私や春恵とは違い、学校は悠也くんが一人暮らしをしているという事情を知らない。
それ以外の存在であっても、結局訪れる候補のほとんどに関してはクラスメイトと同様に悠也くんの住所を知らない、という壁に阻まれる。
それこそ、彼に執心的に付きまとい、彼の生活圏を特定して、この家に辿り着きでもしない限りは――、
「待って、ダメッ!」
私は、そう叫んだ。その声に悠也くんは振り返りはするが、しかし、間に合わない。
ドアが開く。開いてしまう。
ふたりだけ、いた。悠也くんのことを、それこそ執心的に探しかねないという、そういう可能性を持つ人物が。
……温情をかけたのが間違いだったのだろうか。しかし、そうなると、今度は悠也くんにも被害が訪れかねなかったのも事実で。
いや、反省や後悔をするのは後だ。起こってしまったのは。――帰ってきてしまったのは、仕方がない。
だから、今からするべきことは。
「父さん、母さん……?」
悠也くんを、守ることだ。




