#16
「……ここは」
きらびやかな照明、豪奢な調度品。
大人たちが場を行き交っていて、そして、体感の視線がいつもより低い。
「ああ、あの夢か」
すぐに、ここが夢の中であることを把握する。
そう理解できたのは、この夢を見るのが初めてではないからだ。
「ちょうど、動物園であんな話をしたからかな。だから、この夢を思い出したのか」
迷子の手をひくときに、掛けた言葉。偶然にも揃った、雲雀さんとのその言葉。
そう。俺はこの場で迷子の女の子を見つけて。そして、その女の子にその言葉を掛けたのだ。
だからこそ、関連してこの夢が記憶から引っ張り出されたのだろう。
ある意味では楽しく。そして、苦く。
いろんな意味で、俺にとっての転換点となったこの日の夢を。
人の波を掻き分けて抜けたその先。思っていた場所に、ひとりの女の子の姿を見つける。艶のある真っ黒な髪で、前髪がやや重ためにかかっている少女。
その女の子は、ひとりぼっちになってしまって、周りの誰に頼っていいのかもわからず。ただ不安にさいなまれていた。
彼女の名前は、たしか――、
「よう、俺は悠也。お前は?」
今にしてみれば、どんな粗雑な対応だと、そう思ってしまうが。しかし、今にも泣きそうであった少女を目の前にして、ただ必死に、なんとかしようとした結果でもあった。
彼女は突然に話しかけられたことに対して驚いて目をまんまるに丸めながら。少し戸惑って、どもりながらも、声を出す。
「えと、その……ヒイ。私はヒイ、です」
「ヒイちゃんか、うん、いい名前だな! ……それで、ヒイちゃんはこんなところでなにしてるんだ?」
「あの、お父さんに近くにいるように言われたのに。私、はぐれちゃって……」
予想どおりというべきか、やはり迷子であった彼女に。
しかし、改めて現状を把握したヒイちゃんは、自身が父親からの言いつけを守れなかった、というそのことを重く受け止めてしまい、ぷるぷると身体が震えてしまっていた。
そんな彼女を見て、俺はなんとか彼女の持っている罪悪感、責任、そういったものを他のところに転嫁しようと、なんとか頭を回らせて。
そして、言い放った言葉が、
「それは大変だ、ヒイちゃんのお父さんが迷子になっただなんて!」
「……へ?」
「だって、大人のほうがしっかりしてないといけないのに、ヒイちゃんのところから離れちまったんだよ?」
本当に無理やりな言い分であったとは思う。しかし、そんな子供騙しであったとしても、当時子供であったヒイちゃんには、その言葉でも十分で。
ふふっ、と。どうやらヒイちゃんは落ち着いてくれたようで。少しだけ笑っていた。
「うん、そのほうがいいと思うぞ!」
「どういうこと?」
「今みたいに、笑ってるほうがずっとかわいいし、明るい感じがする!」
「ふぇ!? えっ、えと。……あ、ありがと、う?」
少し戸惑いながらに、ヒイちゃんはそうお礼を言う。今にしてみればとんでもない軟派野郎であるが、だが、そのほうがいいと思ったのも事実だった。
彼女が顔を上げた際に、前髪がふわりと少し浮かんで、そして見えた彼女の瞳。
濃紺の。宝石のように吸い込まれるような、そんな瞳。
しっかりと視線を上に上げて、前を向いて。そうしている方が、彼女はキレイであるとそう思えた。
そうして、俺はヒイちゃんの手をとって、彼女の父親を探そう、と。そう提案する。
彼女は少し恥ずかしげにしながらも、コクリと頷いて。そして、ふたりであちこちを歩き始める。
そう時間が経たないうちに、ヒイちゃんの父親は見つかる。誰か、他の大人と話している様子であった。
よかったね、と。俺は彼女にそう伝えるが。しかし、笑顔を引っ込め、どこか寂しげな表情をしながらに、彼女は小さくうなずいた。
まるで、まだ戻りたいと、そう言いたげなように見えるが。しかし、口では決してそうは言わない。
どう考えても、このまま父親の元へと行かせるのが正しい判断。
しかし、下を向いて、楽しくなさそうにしているヒイちゃんを見て。俺は、ただそれを見過ごすということができなくて。
そして、俺は間違いを選んだ。
「そういえば、あっちにおいしい料理があったんだよ一緒に食べに行かないか?」
「で、でも――」
「大丈夫大丈夫。ちょっとくらい探検したって大丈夫だって! ここから出るわけじゃないしさ!」
なんとか、また笑ってほしい。その一心で。
「前を向いて、顔を上げて。そのほうが、いろんなものが見えて、楽しいから!」
「……うん!」
それを伝えたいという、ただそれだけで。しかし、所詮は子供、取れる手段も少なくて。そして、間違ったやり方で俺は彼女の手を引いた。
それからの時間は、楽しいものだった。たくさん笑って、いろいろ見て回って。
そして。子供のやることの規模など、大人からすればたかが知れていて。
俺たちは、見つかって。それぞれの親から、こっぴどく叱られて。
俺が勝手に連れ出したのだと、そう主張はしたが。それでもなお、ヒイちゃんは怒られてしまっていて。
彼女に、悪いことをしたな、と。あのとき、俺のエゴにこだわらずに、そのまま帰してあげれば。彼女は怒られることはなかったのに。
ヒイちゃんに謝りたかったけれど。しかし、そのままその場では彼女にもう一度面会する機会はなくて。
「悠也くん!」
ヒイちゃんが、俺を呼ぶ声が聞こえた。
振り返ると、彼女がこちらを向いていて。
しかし、どうしてだろうか。その面影に、どこか、見覚えがある。
声に、聞き覚えがある。
「悠也くん、大丈夫ですか!?」
視界が、ぼんやりとぼやけてきて。
世界がゆっくりと微睡んできて。
「……あれ、ここは」
先程までとは違う感覚。暖かく、柔らかななにかの感触。
そして間近に感ぜられる、誰かの気配。
「悠也くん! その、起こしてしまってすみません。ですが、うなされているようでしたので――」
「雲雀、さん?」
ゆっくりと俺が瞳を開けると、雲雀さんの濃紺の瞳がこちらを見つめていた。
登校中。春恵から掛けられた電話を受けて。私は思わず飛び上がりそうになった。
悠也くんが、風邪で寝込んでいる。どう考えても心当たりしかないその文面に、心臓がギュッと締め付けられそうになる。
「……私のせいだ」
私の独りよがりな考えで、悠也くんの身体を濡らしてしまった。それで彼が風邪を引いてしまった、と。その結論に至るのは難しい話ではなかった。
私のせいで、私のせいで、私のせいで。――どうしよう。
考えが、うまく纏まらない。足も竦んで、地面にピッタリ縫い付けられたように動かせない。
『……お嬢様。雲雀お嬢様!』
「あっ、ごめんなさい、春恵」
どうやら、私が呆然としている間も声を掛けてくれていたらしく。私は慌てて彼女に謝罪をする。
『いえ、お気持ちはある程度察しているので大丈夫ですが……』
春恵はなにか言いかけた言葉を引っ込めて。そして、しばらく考えてから、言う。
『お嬢様、ひとまず家に戻ってきてください。この状態で学校に行っても、上の空になってしまうことが明白です。私の方から学校には家の都合と適当に連絡をしておきますので』
「……ありがとう」
本当に、よくできた従者である。おそらくは、私の現状を。なにをすればいいのか、どうするべきなのか。それを見失ってしまっていることを見抜いて、そして戻ってくるようにと指示を出してくれているのだ。
感謝の言葉を伝える私に、春恵は『私は雲雀お嬢様の従者ですので』と、そう言う。
ひとまず春恵に言われたままにアパートまで戻ってきて。そして、春恵の部屋へ。
ドアを開け、部屋の中に入ると。春恵は珍しく、驚いたような表情をこちらに向けていた。
「……なにか、気になることでもありましたか?」
「いえ。てっきりお嬢様であれば帰ってきたその足でそのまま広瀬さんの家に突撃するものかと」
「私のことをなんだと思ってます!?」
しかし、普段の私の行動から鑑みれば、春恵がそう判断するのも理解できなくはない。
私がそれをせずにここに来たのは、ひとえに今の私が悠也くんの元に行って、余計な負担にならないだろうか、というそういう思いから。……まあ、どのみち直接部屋に行ったところで鍵を持っていないので、正規の方法では入室はできないのだけれども。
春恵は失礼しました、と。そう謝してから「それで、どうするのですか?」と。
「どうする、とは?」
「雲雀お嬢様がどう身を振りたいのか、という話です」
言われて、私の身体はピシャリと固まってしまう。
看病をしたい。今すぐ彼のもとに飛んでいって、付きっきりで世話をしてあげたい。
自身のしでかしてしまったことを謝りたい。無論、傘を持っていたことなどは言えないけれども。それでも、謝罪の言葉を伝えたい。
「私は、私は……でも……」
自分が悠也くんに害を与えてしまった、それがなによりも今の私の腕と脚を縛る。
謝罪したいのだって、結局のところ自分が楽になりたいだけである。そんな、独りよがりの考えに。自分自身が嫌になる。
ギリッと歯を噛み、拳を握りしめるが。しかし、動けず、地面へと視線を落としてしまう。
そんな私を見兼ねて、春恵は小さく息を漏らしながら。なにを細かいことで悩んでいるのですか、と。
「前を向いて、上を向いて。そのほうがいい、と。そう言われたのでしょう?」
「それ、は」
「なら。下なんて向いていないで。正面から全部突き破って来てください。幸い、お嬢様にはそれをするだけの力があるでしょう?」
そう言いながら、春恵はチャリン、と。私の目の前になにかを差し出す。
見れば、そこにあったのは銀色の鍵。
「私に連絡してきたとき、かなり辛そうな声色でした。言葉では問題はないと言っていましたが、広瀬さんの性格から考えて無理をしている可能性のほうが高いです」
つまり、あまり好い状態であるとは言えない、ということ。
ギュッと、苦しくなる気持ちが生まれるが。同時、それを押し返す程の強い気持ちが湧き出してくる。
「本来、こういうことはあまり良くないのですが、今回ばかりは特例です」
厳密な話をするとここはアパート、もとい賃貸ではなく、私の持ち家なのでそのあたりに抵触するのかと言われると難しい話なのだが。しかし、プライバシーの観点や、そもそも悠也くんの認識は賃貸であるので、よろしくないというのはそのとおりだろう。
それでもなお。そして、あくまでも体裁などをキチンと引こうとしている春恵が、特例としてその鍵を持ち出してくれている。
「あくまで、今回限りのものです。かならず返してください。もし、広瀬さんからなにかしら訊かれた場合は、自分で言い訳を考えてください」
「ええ」
「当然ですが、合鍵なども作らないようにお願いします。……もし、欲しいのなら。自分の手で、広瀬さんから貰ってください」
「……もちろん」
私はそう言いながら、春恵から鍵を受け取る。
正直惜しいといえばそのとおりではあるが。しかし、そのあたりは正々堂々であるべきだろう。
「いつかの彼にも言われたそうですが。私も、お嬢様の今の顔のほうが、好きですよ」
春恵はそう言いながら、少し、私の背を押してくれる。
トンと、足が一歩前に出て。不思議と、身体が軽く感じられる。
そうだ。私は。
前を見て、上を向いている私は。
「……もちろんです。ですが、思い出させてくれてありがとうございます、春恵」
くるりと後ろに振り返って。そして、春恵の方を見て。真っ直ぐに、しっかりと前を見て。
「行ってきます、春恵」
「行ってらっしゃいませ。お嬢様」
悠也くんの部屋の前に来て。大きく深呼吸する。
私の部屋に招待することは何度もあった……というかここ最近はほぼ毎日そうだが。なんだかんだで悠也くんの部屋に入るのは初めてである。
かなり緊張する。それも、そうする理由はあるとはいえ、許可無しでの入室である。
雑炊の材料や、スポーツドリンクなど、必要なものがあることを改めて確認してから。まずはインターホンを鳴らしてみる。
……返事はない。おそらく、眠っているのだろう。
鍵を差し込んで、ひねってみる。カチャリと音がして。
ドアノブを回すと、扉が開く。
「お、お邪魔します……」
起こさないように、小さな声で部屋の中に入る。
知ってはいたが、部屋の間取りは私のものと同じ。なので、大体の要領はわかる。
テーブルに持ってきた荷物を置いて、ひとまず悠也くんの様子を見るために、奥の部屋へ。
近づいてみると、先程までは距離があったから聞こえなかった音が少しずつ聞こえてくる。
衣擦れであるとか、そういうものもありはするのだが。しかし、気になるのはそれではなく。
「……うあ、うっ」
小さいながらに、はっきりとわかる、うめき声。
この場において声の主など、ひとりしかいなくて。私は急いでそちらに向かう。
「悠也くん!」
扉を開くと、そこには苦しそうな表情、汗を流しながらに。譫言のようになにかをつぶやいている悠也くんの姿がそこにあって。
眠っている病人なのだから、とか。そういう事情は頭の中から完全に抜け落ちて、うなされている彼の元へと駆け寄る。
「悠也くん、大丈夫ですか!?」
私のその声が彼に届いたのか、少し眉を動かした悠也くんは、そのままゆっくりと瞼を上げる。
「……あれ、ここは」
「悠也くん! その、起こしてしまってすみません。ですが、うなされているようでしたので――」
「雲雀、さん?」
まだ意識がおぼつかないのであろう。ふわりとした声色で、なんで? と。悠也くんは軽く首を傾げた。




