#15
私は、悪い女の子です。
折り畳み傘の下。すぐ右側にいる彼を感じながらに私は心の中でそう呟く。
今日の天気が晴れのち雨だということは、わかっていました。だから、キチンと折り畳み傘は準備をしていました。
そう、準備はしていたのです。だから、私のカバンの中にはもちろん、折り畳み傘が入っていました。
けれど、私は忘れてしまったと。そう悠也くんに伝えてしまいました。
理由は単純です。チャンスだと思ったから。
彼に変に勘ぐられることなく、悠也くんのことを間近に感じることができて。そして、私自身を彼にしっかりと感じてもらうことができる絶好の機会だ――と。
恋愛小説にも、相合い傘はお互いの感情をより高め、一歩関係性を進める重要なイベントとして描写されていました。
で、あるならば。それを見落とすわけには行くまいと、私はその場の思いつきと感情の高ぶりから、傘を持っていないと嘘をついてしまったのです。
「…………」
お互いに無言の中。しかし、だからこそ。
トットットットッ、という心臓の音が、自分でもよく理解できる。
ああ、興奮しているのだな、と。そう感ぜられる。
折り畳み傘が作り出す狭い雨避けの中を二人で共有するため、必然的にほぼ密着するような距離感で。
もしかしたら、彼にもこの心臓の音が伝わっているのだろうか。それとも、右側にいる彼には、この音は少し遠いだろうか。
仮に伝わっているのならば、彼はどう思っていることだろう。
そんなことを考えてながらに、二人で歩調を合わせながらに少しずつ駅に向かって歩いていっていた。
「雲雀さん、大丈夫? 濡れてない?」
「ええ、大丈夫です。ありがとうございますね」
悠也くんは、優しい。もちろん、私がそんな嘘をついているだなんてことは知らないだろうけれど、こうして気遣ってくれる。
そのちょっとした心遣いに、身体がポカポカとしてくる感覚を覚えながらに。あと少しの距離になってきた駅までの道のりを、ほんの少し惜しく感じてしまう。
もっと、この傘の下にいたい。そう、願ってしまう。
しかし、そんなことが叶うわけもなく。タイムリミットは等しく訪れる。
駅にたどり着いて、屋根の下で私たちは傘の下から離れる。
そうして折り畳み傘を仕舞っている悠也くんの姿を見て。
「――ッ」
しまった、と。私は息を詰まらせる。
悠也くんの右肩――おそらくは傘に収まりきらなかったであろう場所が、酷く濡れている。
やらかした。完全に、失念をしていた。
なぜ、そんな単純なことに気づかなかったのか。それが思考から外れてしまうほどに私が興奮していたと、そういうことなのだろうが。しかし、でも。だからといって――、
ああ、まただ。私はまた、彼の優しさだけを享受して。そして自分の行いを見失ってしまうのか。
悠也くんは、たしかに私に対して濡れていないかと確認してくれた。それは、折り畳み傘が小さいことを理解していたからだ。
雨の具合によっては一人で使っていても心許ないような折り畳み傘だからこそ、二人で入っている現状、少なくともどちらかが濡れないはずがない。
だからこそ、彼は自分が濡れてでも私が濡れないようにと心遣いをしてくれたのであろう。
それを、私という愚図はそんな単純なことにも気付かずに。ただただ嬉しく感じていたというのだ。
「あ、あのっ! えっと、その肩が――」
「ああ、これ? 大丈夫大丈夫。これくらい。気にしないで」
違う、そうじゃない。
その優しさは、毒になる。
文句のひとつでも、恨み言のひとつでも言ってくれれば。それを受け止めて、楽になれるというのに。
もしここで私が、折り畳み傘を持っていたことを思い出したというようなテイで彼に伝えたとしても、怒ることなく、笑って流してくれるだろう。だがしかし、それがまた、苦しい。
ああ、そうか。これが、自分の欲求を優先したことへの罰か。
――悪い女の子である私に、課せられるべき罪なのであろう。
謝ることすら赦されず、この感情を抱えなければいけない。
うまく呼吸ができない。
悠也くんをこれ以上心配させないためにも、なんとか表面上だけは取り繕うけれども。
「…………」
腹の底に淀むようにして佇んでいる罪悪感に、足取りが、酷く重く感じられた。
結局、最寄り駅についてからは、併設されているビニール傘を買って、並んで帰ることにした。
もう遅いとは理解していても、なにひとつ返せていないくせに、これ以上彼の好意にだけ甘えるわけにはいかないと感じたから。
悠也くんには「この付近だと誰かに見られるかもしれないので」と伝えると、なるほどと理解してくれた。……まあ、そのあたりの理解がややズレている彼だから、おそらく今回も変に曲解しているかもしれないけど。
さっきまでは駅につくまでの時間がずっと続けばいいのになどと宣っていたくせに、今では家までの時間が酷く長く思えてしまう。
会話のないままに、家にまで辿り着いて。そこで彼は笑顔をこちらに見せながら、今日はありがとう、と。
「動物園なんて行ったの、本当に久しぶりだったからさ。とても楽しかったよ!」
「ええ、私もとても楽しかったです」
私は、笑えているだろうか。……作り笑顔を浮かべるのは得意だけれども。今はそれをうまく実践できているかが不安で仕方がない。
しかし、悠也くんの様子が特段変化していないところを見る限り、おそらく大丈夫なのだろうとそう確信できる。……それならば、とりあえずはいいか。
「それじゃあ、また明日!」
「ええ、また明日。学校で」
今日の夕飯は、お互い疲れているだろうからということもあって、各自でということになった。おそらくは事実上私がいつも二人分作っているから、という理由で悠也くんが私のことを気遣ってのことだろう。
今日付き合ってくれたお礼に、と。準備しておいた冷蔵庫の中の食材を思い浮かべながら、なにかしら声を出そうともしたのだが。彼の濡れている肩を見て、言葉が引っ込む。
引き止めることはできた。けれど、はたしてそれでいいのだろうか、と。
それが、彼のためになるのか。私の独りよがりなエゴではないのか、と。
今の私にはそれを判断できるほどの思考力と、自信がなかった。
柔和な笑み浮かべながらに部屋に入っていく悠也くんを見届けて。
その扉が閉まると同時、私はその場にうずくまる。
叫びそうになる衝動を抑え込む。今ここで声を出してしまっては、彼に気づかれてしまう。
自分のしでかしてしまったことに、心臓を圧し潰されそうになりながら。
そのままの姿勢で、心の痛みに耐えながらに考える。
やらかしてしまったことは、もう、どうしようもない。ならば、ここからの行動で挽回しないといけない。
私のできることは、明日以降に、この償いを行うことだけだろう。
ならば、しっかりと準備をして。明日学校に向かおう、と。やや無理やりに自身を発起させ、なんとか身体を動かす。
明日にできることをあれこれ思案しながら、いろいろと計画を練りながら、流れていく時間にゆっくりと身を任せる。
そうしてしばらくする頃には、疲れから私は微睡みながらに夢へと沈んでいく。
明日、学校に彼の姿がないことなど。想像もせずに。
朝。俺が目を覚ますと、妙な違和感を覚える。
「……身体が、重い」
ぼんやりとした頭の中、うまく回らない思考のままになんとか身体を動かす。
若干ラグのある身体の応答に少しふらつきながら、歩いて戸棚へと向かう。
引き出しの中から体温計を取り出して、脇に挟み込む。
然程時間も経たないうちに、体温計はピピピッと電子音を立てて俺の体温を表示する。
「……風邪とか、久しくひいていなかったんだがな」
ディスプレイには三十八度四分と書かれている。間違いなく、発熱をしている。
「まあ、見栄を張ったしっぺ返しといったところか」
やや自嘲気味にそう呟く。雲雀さんのいた手前、いい格好をしたくて大丈夫だと伝えていたが、やはり濡れた身体で長時間いたのはあまりよろしくなかったらしい。
「雲雀さんの方は、大丈夫だろうか」
昨日の様子を見る限りでは濡れてはいないと思うけれど。しかし、さてどうしたものかと。
ここで俺が体調を崩したことを雲雀さんに知られては、彼女に自分のせいで、と思わせてしまうかもしれない。
無理を押して登校することも不可能ではないが、余計に悪化する可能性もある上に、移してしまう恐れがある。
「うん。休むほうが、良さそうだな」
あとでメッセージで雲雀さんのせいではないと送っておこう。彼女の性格的に、気休めにしかならないとは思うけど。
とはいえ、ひとまずは学校の方に連絡をしておかないと。
「ええっと、それじゃあ父さんか母さんに連絡をしてもらって――」
そこまで考えかけて、思考が止まる。どうやら熱で頭が十分に回っていなかったせいで、すっかりと失念していたらしい。
そういえば、二人とも夜逃げしたんだったな、と。
今の今まで、一人暮らしになってからというもの、なんだかんだと雲雀さんと触れ合う機会が多かったこともあって、あまり寂しさとか、そういうものを感じることは少なかったけれど。
突然、一人ぼっちのであることを思い知らされて、静まり返る部屋が酷く寂しく感じる。
「……結局のところ、ただの学生風情。一人じゃなにもできやしないってわけか」
雲雀さんは俺のことを褒めてくれるし、なぜか篤い信頼を置いてくれているか。しかしながら、今の俺が不自由というほどの支障もなく暮らせているのは、大家さんからの厚意と、雲雀さんがいるという安心感とに依るもので。結局のところ自分一人ではなにも成せていないことを理解する。
「ほんっと、情けねえよな」
生徒のズル休みを対策するため、原則休みの連絡は保護者からということになっているが。現状、俺には両親がいないわけで。
無論、事情があれば生徒からの連絡でも受理自体はされるだろうが「両親が夜逃げしていないので」なんて言おうものなら、それこそ別問題で教師がすっ飛んできそうなものである。
「どうしたものか……」
スマホを開いて、連絡帳をスクロールする。
店長……はダメだな。いや、言ったらやってくれそうではあるが、既に辞めた手前、あんまり頼るべきではないだろう。
クラスメイトはダメだし、同じ理由で雲雀さんもダメ。
……と、なると。
俺はそのまま名前をタップして、電話をかける。
数コールもしないうちにスピーカーから「はい」という返事が帰ってくる。
「すみません、大家さん。広瀬です」
『どうかされましたか? 広瀬さん。どこか声も掠れているようですが』
「あはは、わかっちゃいますか。その、どうやら風邪をひいてしまったみたいで――」
俺はそのまま連絡をした理由と事情、そして高校の電話番号と俺のクラス、出席番号を伝える。
「お手数をおかけしますが、よろしくお願いします」
『いえ、それは構わないのですが。本当に大丈夫ですか?』
心配そうな声が、電話越しに聞こえてくる。
まあ、学生の一人暮らしで体調を崩したなど、傍から見れば気になるのも仕方がないだろう。
「ええ、大丈夫です。ちょっと体調を崩しただけなので」
実際にはそこそこ発熱もあってちょっと、というレベルではないのかもしれないけれど。まあ、寝ていればある程度快復するだろう。
水分の補給をして。なにも食べないのもいけないだろうと冷蔵庫を開く。
「……あんまり無いな」
それもそのはず、基本的には夕飯は雲雀さんの部屋で頂いているので、こちらの冷蔵庫にはあまり多くのものは入っていないのだ。本当に、改めて考えるとなにからなにまで、という話である。
とはいえ、朝ご飯は自分で支度しているので、なにもないわけではないし、ちょうど動物園に持っていく弁当のための食材の残りもありはするので、食べるもの自体はありはする。
もっとも、調理の必要なものに関しては、今それをできるだけの体力があるかと言われると難しいので、食べられるものから除外されるのだけれども。
ひとまずそのままで食べることができる小分けのヨーグルトをひとつ取り出して食べる。
ひんやりとした口当たりが、高い体温を程よく奪ってくれて気持ちがいい。
ヨーグルトを食べ切って。さすがに今洗い物をする気力は無いので、軽く水ですすいでからスプーンはシンクに置いておいて。
正直ヨーグルトだけで足りているのかと言われたら足りてはいないのだけれども。その一方で食欲がわかないという板挟み。
「……とりあえず、寝ておくか」
体調が悪いのだから、休めておくのが最善だろう。空腹云々も、眠っていれば気にならないだろうし。
布団に包まりながら、ゆっくりと目を伏せる。
温かさにだんだんと意識が深くに引っ張られていき。すっと、手放して。
そして、夢を見た。




