#11
土曜日。大家さんから頼まれて、彼女の知り合いが経営しているという会社に清掃をしにいっていた。
「へぇ、二人とも高校生なの。それなのに偉いわねぇ」
「いえいえ。あ、こっちも掃除してしまいますね」
女性社員の方にそう答えつつ、俺はペコリと頭を下げる。
ひらひら、と。手を軽く振りながらに「よろしくねぇ」と彼女がそう言った。
土曜日ということもあってか、往来の少ないエントランスの中で、俺と雲雀さんは掃除をして回っていた。
曰く、掃除は不慣れという雲雀さんではあったが、日々のアパートの清掃の甲斐もあってか、今ではテキパキと仕事をこなしていた。
というか、雲雀さんに関しては、料理にせよ掃除にせよ、不慣れだからということで教えながらに一緒にやっているのだが。しかしながら上達が早いのか、いずれに於いてもすぐさまとても上手になっていた。……少なくとも、俺の目にはそう見える。
正直どちらについても、もうわざわざ俺が教えなくても大丈夫なのではないかとそう思うのだけれども、それを彼女に伝えたところ「私はまだまだですので!」と、そう言ってまだ教えて下さい、と。
まあ、できることならば協力は惜しまないと言ったし。それら自体は問題ないのだけれども。……はたしていったいなにを教えればいいんだろうか、と。そう思ってしまう。
「向上心があるのはいいことだし、まあ、いいの、か?」
ううむ、と。少し考え込みながら、モップをかける。
しかし、あれだけできてもなお、未だに上達しようとするのにはなにかしら理由があるのだろう。雲雀さんはひとり暮らしの理由を社会勉強と言っていた。それに関係することなのだろうか? たとえば、ひとり暮らしの条件として一定以上の自活の技量を身につけることとか。……いや、それが理由なのならば十分だろう。
そうでないとするのならば。誰か、その技術を捧げたい相手がいるとか。
少しばかり考えて、合点する。……そういえば、彼女には、居た。そういう相手が。
いったいそれがどこの誰なのか、ということについては全く知りはしないのだけれども。しかしながら、十年来の想いであると、彼女はそう言っていた。
で、あるならば俺がするべきことは……、
「悠也くん!」
「……雲雀さん、どうかした?」
「どうかしたかということであれば、悠也くんの方ですよ? ここ、私の担当のエリアなので」
言われて、いつの間にやら分担していた範囲を超えて移動してしまっていたことに気がついた。
考え事をしながらに作業をするものではないな、と。特に、今に関してはお金を貰っての仕事としてやっているわけで。しっかりとそれに見合う仕事をしなければならない。
「ごめんごめん、ちょっと見落としてた」
「ううん、別にそれ自体は問題ないんだけど。悠也くんが私の分までやってくれてるわけですし」
小さく笑いながら、二人でそう言葉を交わす。
「悠也くんがこちらまでやってくれるというのであれば、私が楽になるので」
「ははは、それなら自分の分を早くに片付けてそっちを手伝いに行こうかな」
「ふふふ、それなら私のほうが早くに仕上げて、そっちを手伝いに行きますね」
軽く冗談を交えつつ。ちょっとだけ談笑をして。それから、仕事に戻る。
お互い、半分冗談として話していたさっきの内容ではあるが、改めてそう言葉に出した以上、ちょっとだけ負けたくなくなる。
よし、と。ひとつ気を引き締めてから、先に自分の範囲を完璧に仕上げてやろうと、少しだけ躍起になって掃除を再開した。
ひとしきり仕事を終えて。なお、お互いキチンと休憩を挟みつつ、俺個人としては結構頑張ってみたんだけれども、ほぼ、雲雀さんと終わるタイミングが変わらなかった。
雲雀さんの方も、むう、と。どこかちょっと悔しそうな反応をしていたあたり、彼女も対抗心を燃やしていたのかもしれないが、それにしてもほぼ差がつかなかったか、と。少し悔しく感じていると。
社員の方が、ありがとうねぇ、と。そう言いながらやってきた。
「おかげさまでピカピカになったよ」
「いえ、そうするために来てますから」
「真面目ねえ。これで高校生だってんだから、ビックリしちゃうわね?」
女性のお世辞に俺は軽く会釈しながら、ありがとうございます、と。返しておく。
そうして、彼女はなにやらしばらく考えたのちに、あ、そうだ、と。声を出して。
「いいものがあったわ。ちょっと待っててね」
と。そう言って、彼女は自身の机に向かう。
そうして、カバンの中からなにやら取り出すと、それを持ってきて、はい、と差し出す。
「以前に取引先の人から貰っちゃったんだけど、私はちょっと行ける都合がつかなさそうで。そのまま使わないのももったいないしなーって思ってたのよ」
差し出された封筒を受け取ってみて、中身を見てみると。なにやら、チケットらしきもの。
見てみると、どうやら動物園のチケットのようだった。
「ちょうど2枚あるし、ふたりで行って来たらどうかしら?」
「えっ、と。……でも、報酬はちゃんと別途貰ってますが」
「大丈夫大丈夫、これに関してはただの個人的なものだから。それに、さっきも言ったようにそのまま使えないままで期限が来るのも勿体ないからね」
たしかに、言うとおり期限はかなり間近に近づいていて。来週の週末までに使ってしまわないと失効してしまう。
逆にここまで期限が近づいてしまっている状態なのも却って珍しいな、なんて思いつつ。「そういうことだから、貰ってくれない?」と、そういう社員の方。
俺はちらりと雲雀さんの方を見てみると、こちらに対してコクリと頷きを向けてくる。……はたしてそれがどういう意図による頷きなのかはわからないが、しかし、否定的な考えを持っていないことだけは確かだった。
「……では、ありがたくいただきます」
「うん。ぜひ、楽しんできてね!」
動物園、か。……いや、まあこういう娯楽施設全般に言えることではあるんだけれども。
随分と久しく、訪れていなかったものだから。なんとも懐かしいような、ここまでくると新鮮なような。そんな感覚を覚えてしまう。
終わってから、いちおう大家さんに、なんらか規約に引っかかったりしていないかを確認してみたが。あくまで個人的なやり取りだし、金銭の直接の授受を伴うものではないので問題はない、と。そう言われた。
「……しかし、どうしようか、これ」
帰り道。揃って電車に乗りながら最寄りまで帰る途中。貰った封筒を見ながら俺はそうつぶやいた。
「行けばいいのではないでしょうか、動物園」
「うん。それはそうなんだけど。そうじゃなくって、ね」
純粋な瞳でそう言ってくる雲雀さん。その言葉になんら疑問や悪意などがないのがわかってしまうから、却って絶妙にやりにくい。
「来週末まで、となると。特別に急ってわけでもないけど、絶妙なタイミングだからなあ。……雲雀さんは、誰か一緒に行く候補の人とかいます?」
「えっ? 悠也くんは行かないんですか?」
「いや、まあ。それは、ええっと……」
行きたいか行きたくないかでいえば、行きたい。
久しく行っていなかったというのもあってかなり興味などもあるし。
けれど、このチケット。都合がいいのか悪いのか、ピッタリ二枚しか無い。
「そうなると、雲雀さんが誰かと一緒に行くほうがいいのかな、と」
「だから、それを悠也くんと一緒に、ではダメなのですか?」
……ダメ、というわけではない。正直、動物園なんかであれば、以前のショッピングモールなんかとは大きく違って、高校の生徒たちと合う可能性も少ないだろう。だから、そういう意味合いでは万が一を考えるとちょっと危うくはあるが、その可能性の低さを考えると大丈夫、だと思う。
だがしかし、問題があるのはまた、別のところになる。
「その、ええっと。……雲雀さんは、ずっと想ってる人がいるんだよね?」
「ふぇ? え、ええ。その、そう、ですね?」
「その、それなら。あんまりそういう場所に俺と一緒に行くのは良くないんじゃないかなって」
「……あっ」
雲雀さんは、目を丸めながらにそう声を漏らす。
そのまま彼女は、少し焦りながらに「あの、ええっと」と、しばらく、所在のない言葉を出しながら。
しかしながら、コホン、と。ひとつ、咳払いをして。
「その、ええっと。悠也くん。少し、質問です」
「……お、おう」
「悠也くんは、特に誰かとお付き合いをしているわけではない女性が、異性と貰い物のチケットでお出かけしているのを、ふしだらと思いますか?」
「えっ? なんで俺?」
「いいから、答えてください」
ずいっ、と。雲雀さんが顔を近づけながらにそう尋ねてくる。間近に感ぜられる彼女の雰囲気や香りに、思わず顔が熱くなってしまって。恥ずかしさから逃げるように顔を上に向ける。
しかし、そんなことを言われても。そもそもそんなことに口に出すほど、親しくしている女友達がいない。いや、雲雀さんを数えていいのなら、彼女以外に、いない。……いやまあ、生活が苦しくなってからというもの、なかなか友人ができなくて、両性ともに友達と呼べるような人はあんまりいないんだけど。
それ以前であればそれなりにいたし、親の都合で会った人たちもいたけれど。それも十年やそれ以上も前の話だし、考慮すべきではないだろう。
参考にできるような相手がいないからわからない、と。そう断ろうとしたのだが。しかしながら、もし仮にいたとして、と。答えを要求される。
「……まあ、俺個人としては別に付き合っていないのなら、問題はない、のかな。ただの友達としての付き合いなんだから」
「なら、問題ないです!」
「いや、俺個人としてはの話だよ!? その雲雀さんの想い人の人がどう思うかはわからないよ!?」
慌てて俺がそう言うものの、雲雀さんは、大丈夫ですの一点張り。
「大丈夫ですから、来週、ぜひとも一緒に動物園に行きましょう!」
「……なにを根拠に大丈夫と言えるのかはわかんないけど。雲雀さんがそれでいいのなら」
俺がそう答えると、彼女はふふふっと嬉しそうに笑ってから「今から楽しみですね!」と、そう言う。
楽しみなのは、俺もそうだけど。本当にそれで大丈夫なのかなあ、と。そんなことを思いながら。
……まあ、雲雀さんが楽しそうだし、大丈夫、なのかな? わかんないけど。
数日前。春恵の部屋にて。
「悠也くんと、お出かけがしたい」
「土曜日の外部への掃除ならキチンと予定していますよ?」
私のその願望に、春恵は淡々とそう答える。実際、今週末には私の息がかかっている会社へ出向いて、そこでの清掃の予定がある。
その帰りに、そのまま一緒に買い物なんかをして、という形で、擬似的にお出かけができるように仕組んではいる。仕組んでは、いるのだけれども。
「そういう意図じゃないことはわかって言ってますよね?」
「はい、もちろん」
私のその言葉に、春恵はあっさりとそう肯定する。おい、と言いたいところではあるが。ひとまず、その言葉は飲み込んでおく。
「ですが、てっきり私は何度か仕事帰りの買い物を繰り返したあとに、我慢できなくなって言うものだと思っていたので」
「デートって言って?」
「……仕事帰りの買い物を」
どうやら、春恵はいちおうの従者としての体裁としてそこは譲れないらしい。まあ、然程重要ではないのでとりあえずは置いておく。
「私も、最初は段階を踏んで、そうしていくつもりでした。でも、そうも言ってられなくなったんです」
私は、彼に向けて宣言した。誓った。必ずや、助け出してこの想いを成就させてみせる、と。
きっと、悠也くんは微塵も思っていないだろう。まさか、その誓いの向く先が、自分自身であるだなんてことは。
「それに、彼らが戻ってきている動きがあった、と。そう言っていましたよね?」
「……ええ。極端に近隣ではないものの、こちらに向けて近づいてきている、と。そのように報告が上がっています」
おそらく、警戒していたはずなのに、なにごともなかったことに違和感を覚えたのだろう。あるいは悠也くんを心配したか。……いずれにしても、面倒ごとになりかねない。
特に、前者ならば厄介極まりないだろう。変に勘違いをして、つけ上がってくる可能性がある。
「万が一を危惧するためにも、事前にできることはやっておきたいですし。そのためにも、悠也くんと親交を深めておきたいんです」
「……なるほど」
春恵からの視線に、疑りが乗せられている。
まあ。実際、私の欲が混じっているのは事実だから、なにも言い返せないのだけれども。
けれど、言葉に出したこと自体は嘘ではない。想定よりも、猶予時間が短くなりそうというのも事実だった。
勝手に消えたのなら、そのまま、空気のように。触れず、関わらず、過ぎ去ってくれればよかったのに。
「ならば、どうにか出かけられるように手配しましょう。……そうですね、たとえば、偶然映画館のチケットが手に入る、というのはどうでしょうか?」
「いいですね。その方針で進めていきましょう。ただ、私は映画館ではなく、動物園がいいです」
「わかりました。では、そのように」




