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最後の手紙①

気がつけば、雲が月を隠し、あたりは白い霧に包まれていた。

さっきまで梢を洗っていた月の光は消え、暗闇の中に残るのは、獣の息遣いと、事切れかけた人間の吐息だけだった。

雨は糸のように細り、葉の縁で丸まり、落ちては土に吸い込まれていく。

濡れた土の冷たさが、皮膚の内側まで染み込んでいた。

風はほとんどない。

音だけが近く、世界は妙に遠かった。


暗闇――それは何よりも恐ろしい存在だ。

視界を奪い、方向を奪い、どこまでが地面で、どこからが奈落なのかすら分からなくする。

ただ足元を踏み出すだけで、何かを壊してしまうのではないかという不安が、骨の奥まで染み渡る。見えないということは、それゆえに人を無力にするのだ。


ラットはすでに狼の姿に戻っていた。

泥で重くなった腹毛を引きずり、倒木の陰に寄せた女の体を支える。

濡れた鼻先を近づけ、なおも死の縁にあるマリアの頬をそっと舐めた。

舌にのった微かな鉄の匂いが、頭の奥へすうっと沈んでいく。

皮膚は氷のように冷え、すでに固くなり始めていた。


頬を伝う気配に、マリアが薄く目を開ける。

微かに動いた左手が、狼の頬に触れた。

指先は冷たいが、その動きには迷いがない。

失血で視界を奪われていても、匂いと体温で相手がラットであることを悟ったのだ。


「ああ、結局、謝れなかったな……。最後に、お願いを聞いて、子犬さん……。私の鞄、診療所に、まだあるかな。手紙を……リリーに…………。」


言葉は雨にほどけ、土へと落ちていった。

それだけを残し、マリアの片目は大きく見開かれたまま、かすかだった吐息も静かに止んだ。


ラットはしばらく動かなかった。

耳だけが雨音を拾い、胸の奥で脈が一度大きく外れ、また戻るのを感じる。

やがて、濡れた鼻先を額に押しあて、ひと舐めする。

閉じきれずに残ったまぶたを、鼻面でやさしく伏せた。


雲の向こうに消えた月の輪郭を、闇の裂け目に探すように空を仰ぐ。

そして、ラットは胸の底から声を絞り、雲に隠れた空へ向かって長く遠吠えをあげた。

白い霧が震え、雨の森がその声を受け止める。

その獣の声に小枝に止まる小鳥は身をすくめ、遠くで梟が一声だけ応えた。


長い声を終えると、ラットは顔を戻し、周囲の葉を前脚で丁寧に掻き寄せた。

露に濡れたシダが音もなく重なり、彼女の肩口を覆う。

やわらかな土を選び、浅い窪みを作って倒木の陰へ体を寄せ、雨が直接落ちない位置に整える。

狼の爪は決して器用ではない。

だが、同じ動作を何度も繰り返すことで、わずかなヒサシをこしらえた。


埋葬と呼ぶには拙いが、せめてもの葬いだった。

近くの若木の幹に、前脚で印を刻む。

薄皮が剥け、白い筋が二本、闇の奥にかすかな目印として残る。


それは、この小さな塚の印だった。


鼻先で土をならし、最後にもう一度だけ、マリアの髪へ鼻を寄せる。

雨の匂いに混じって、パンと香油のぬくもりが、まだそこに残っていた。


そして、ラットは立ち上がると静かに一度だけ吠えた、また次の満月の日にキミを見つけると――



最後までお読みいただき、ありがとうございます。


もし少しでも内容が面白かった、続きが気になると感じていただけましたら、ブックマークや、画面下部の『☆☆☆☆☆』を『★★★★★』に変えていただければと思います。


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どんな小さな応援も感謝します、頂いた分だけ作品で返せるように引き続き努力していきます。


これからもよろしくお願いします。

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