満月の夜に③
ラットは低く呟き、獣と化したマリアの次なる攻撃に備えた。
満月光が彼女の暴走を加速させているのなら、夜明けまで、あるいはこの忌まわしい月が雲に隠れまたこの地を雨で満たすまで、耐え凌ぐしかない。
リリーを守りながら、この狂乱を鎮める時間を凌ぐのだ。
黒き獣とかしたマリアが再び咆哮を上げ、鋭い爪を振りかざして突進してくる。
その動きは直線的で力任せだが、破壊力は凄まじい。
ラットは冷静にその軌道を見切り、紙一重で攻撃をかわす。
庭の芝生が抉られ、泥が舞い上がり、砕けた石灯籠の破片がラットの頬を掠めた。
――リリーのいる診療所から、少しでも距離を取らなければ!
ラットは意図的にマリアを庭の奥へと誘い込む。
マリアは理性を失い、ただ目の前の動く影を追うように、獰猛な勢いでラットに襲い掛かる。
その爪が空を切るたび、風圧がラットの銀色の外套を揺らした。
「ガアアアッ!」
一瞬の隙を突かれ、マリアの腕がラットの肩を掠める。
微かに熱い痛みが走るが、構ってはいられない。
体勢を立て直したラットは、マリアの巨躯に渾身の力で体当たりし、わずかにその動きを止めた。
そんな時だった。
背後から、複数の荒い息遣いと、泥を蹴る足音が急速に近づいてくるのを、ラットの鋭敏な嗅覚と聴覚が捉えた。
「リリー!無事か!」
聞き覚えのある、焦燥と怒りに満ちた声。
――ハンクだ。
まずい、とラットは直感した。
今の自分の姿は、か弱い少年にしか見えないだろう。
そして、目の前には狂暴な獣と化したマリア。
彼らには、この状況がどう映るか、それは火を見るよりも明らかだった。
「いたぞ!あの黒い化け物だ!少年が襲われているぞッ!!」
ジョナサンの鋭い声が響き、数人の警官たちが一斉に庭へとなだれ込んできた。
彼らの手には銃が握られ、その銃口はまっすぐにラットの目の前で咆哮するマリアへと向けられている。
「待て!! 撃つな!!」
ラットは咄嗟に叫んだ。
だが、その声は警官達の足音にかき消される。
「少年!! 危ない、伏せろッ!! いま助けてやるぞッ!!」
ハンクが叫び、傷ついた腕を庇いなら猟銃を構える。
銃口を向けた相手が、かつて娘に優しく接したマリアであるとをハンクが気づくことはない。
「くそうッ、なんでこんなことに……」
ラットは内心で舌打ちした。
マリアを止めなければならない。
リリーを守らなければならない。
そして今、ハンクたちの誤解も解かなければならない。
状況は一気に混沌の度を増していた。
黒き獣と化したマリアは、新たな獲物の存在に気づき、その真紅の双眸を鋭く向けた。
標的を変えようと動いた彼女の巨躯を、ラットは必死に食い止めようとする。
「おいッ!! オマエの相手はこっちだ、マリアッ!!」
ラットはその腕を掴み、力任せに引き戻そうとした。
しかし獣化した彼女の肉体は、人間離れした力を帯びていた。
次の瞬間、振り払われたラットの身体が宙を舞い、背中から泥濘へ叩きつけられる。
「おいっ、少年、何をやっている! 今すぐそこから離れるんだッ!!」
ハンクの声が響き渡る。
「ジョナサン、あの少年は何をやっているんだ? 親でも殺されたのか?」
「……だとしてら、子供は守らねばならんな。ここで霧の獣を沈黙させねば危険すぎる」
「チッ――」
ジョナサンは短く指示を飛ばし、数名の警官が銃を構える。
数発の銃声が夜気を裂き、弾丸がマリアの獣体へと叩き込まれた。
だが、ルナスクスによって強化された肉体は、それらを容易く弾き返す。
「効かないのか!?」
ざわめく警官たちの背後、ハンクが傷ついた腕で猟銃を持ち上げる。
その銃口は揺れながらも、確実にマリアへと向けられていた。
銃が効かない――ハンクにはそれがわかっていた。
夜の森で、もう一体の“それ”と対峙していたからだ。
その狙いがラットに一瞬ぶつかり、視線が交錯する。
発砲されれば、痛みを負ったマリアの怒りはハンクと警官たちへ向く、それをラットは理解していた。
そしてその引き金が引かれた後の惨劇も。
「おいッ!! やめろ――ッ!!」
ラットの叫びが届く前に、猟銃の轟音が夜の庭に鳴り響いた。
弾丸は、獣と化したマリアの左眼へと深々と食い込み、血飛沫とともに肉を抉る。
「グギャアアアアアッ!」
マリアの咆哮が空気を裂く。怒りと苦痛に満ちた咆哮。
真紅の片眼がラットから離れ、代わりにハンクと警官たちへ向けられた。
「バカな……。致命傷だぞ。何故動いていられる……」
ハンクは言葉を失い、蒼ざめた顔で猟銃を握りしめる。
その光景を目の当たりにし、ラットは跳ね起きると、再びマリアの注意を引こうと叫び始めた。
「おいッ!! こっちだ!お前の獲物はここにいるぞッ!!」
しかし、猟銃の一撃は、マリアの内に潜む獣の本能をさらに凶暴なものへと変えてしまっていた。
ラットの呼びかけに応じることなく、獣化したマリアは地を蹴り、一直線に警官たちへと突進していく。
「うわあああっ!!」
「化け物が来たぞ!!」
警官たちの怒号と悲鳴が入り混じる中、数名が勇敢に立ちふさがろうとする。
だが、その意志をあざ笑うように、マリアの爪が彼らを薙ぎ倒していく。
鈍い衝突音、骨の砕けるような音、そして断末魔の叫びが、ラットの耳に突き刺さる。
「ハンク!! 退け!! そいつには銃で倒せんぞッ!!」
ジョナサンが叫ぶ。
ハンクの脳裏には、森でヴィクターと対峙したときの絶望的な光景が蘇っていた。
鋼のような皮膚、跳弾する弾丸、そして人知を超えた怪力。
目の前の獣もまた、同じ「怪物」に違いないのだと。
ジョナサンは顔面蒼白になりながらも、必死に指示を飛ばすが、警官たちの戦列はすでに崩れ始めていた。
その間にも、獣化したマリアの破壊は止まらない。
――クソッ、止めなければならないッ!!
凄惨な現場を目にして、ハンクは自責に押し潰されそうになっていた。
それでも警官たちを庇うため、大きく腕を広げ、マリアに向かって立ちはだかる。
ラットはそんなハンクを守るため、口内に広がる鉄の味を噛み殺しながら、必死に足を前へと運んでいた。
次の瞬間、閃光のようにマリアの刃がハンクへと走った。
――お父さん!!
リリーの悲鳴が、どこか遠くで聞こえた気がした。
――間に合わない!
ラットがハンクの死を覚悟した瞬間、ラットの奥底で何かが爆ぜた。
銀の光が全身を突き抜け、月の力を纏った最後の衝動が体を駆け巡った。
「やめろォォォォォォ――ッ!!」
それはもはや少年の声ではなかった。大地を震わせるほどの、獣の咆哮。
ラットは渾身の跳躍でマリアの背後をとらえ、全力の一撃をその背に叩き込んだ。
ゴシャッ!
獣の骨が砕ける鈍い衝撃音が夜を裂き、マリアの巨体はくの字に折れ、地面へ叩きつけられた。
亀裂が走る庭に土煙が舞い上がる。
「……が……ぅ……」
獣化したマリアは短い呻きを漏らすと、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
燃える真紅の瞳から光が失われ、荒々しい毛皮はみるみる人間の肌へと変わっていく。
月明かりが静まり返った庭を照らす。そこに横たわっていたのは、血と泥に塗れた一人の女性だった。
頭部には猟銃の弾痕、背にはラットの一撃による深い陥没が残る。
「……マリア……なのか……? なぜ……」
ハンクが震える声で呟いた。
ジョナサンも警官たちも、信じられぬ思いで地面に伏すマリアを見つめ、口元を覆って言葉を失っていた。
ラットの頬を熱いものが伝った。
それは雨ではない。
無力を呪う、悔恨の涙だった。
守りたかった。
誰も傷つけさせたくなかった。
だが現実は容赦なく残酷だった。
ラットはふらつきながらマリアの傍へ近づき、その小さな体でそっと抱き上げた。
まだ微かな温もりが残っている。
「……すまない……マリア……」
絞り出すような声で呟くと、ラットは残る力を振り絞り、夜空へ跳躍して森の闇に姿を消した。
残されたのは、呆然と立ち尽くすハンクとジョナサン、そして数人の警官たちだった。
「……今の少年は……いったい……」
ジョナサンが掠れ声で問う。
ハンクは黙したまま森を見つめる。
銃弾を弾き返す怪物を、素手で一撃で屠った少年。
その姿は人間を超えた存在にしか見えなかった。
そして、その腕に抱かれていたのは、確かにマリア・クラインだった。
「……分からない……。だが……」
ハンクは言葉を探すように口を開いた。
「ただ……、あの少年は、何かを守ろうとしていた……。そう思うんだ……」
二人の脳裏には、悲しみに濡れた少年の瞳が鮮烈に焼き付いていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
もし少しでも内容が面白かった、続きが気になると感じていただけましたら、ブックマークや、画面下部の『☆☆☆☆☆』を『★★★★★』に変えていただければと思います。
ブックマークや星の評価は本当に励みになります!
どんな小さな応援も感謝します、頂いた分だけ作品で返せるように引き続き努力していきます。
これからもよろしくお願いします。




