満月の夜に②
泥の生臭さが鼻腔を刺す。
湿り気を帯びた芝が足裏で潰れ、冷たい露が指の隙間に染みた。
ラットとマリアは互いに間合いを測りながら立ち上がる。
ラットの体毛が編み込まれて作られた外衣は雨を含み、裾が重たく張り付き、月光が描く白い円が二人の影を中心へ縫いとめた。
浅い裂傷から滲む血の締めつけを感じつつも、ラットは目の前の獣を細部まで観察する。
体毛は雨気を含んで艶を失い、呼気は炉のように赤熱し、瞳孔は血の色に染まって揺れていた。
ルナスクスが彼女を暴走させているのだろう。
獣化したマリアが呼吸をするたび、ルナスクスから発せられる薬液の匂いが、ますます強まっていくのをラットは嗅ぎ取った。
「ガァッ!」
マリアが地を蹴る。
泥が火花のように月光を弾き、一直線の爪閃がラットの眉間を狙う。
ラットは半歩だけ軸足をずらし、紙を裂くような風切り音を頬で感じ取った。
跳躍は驚くほど速いが、胴体が少し遅れて追いつく。
そのわずかなズレを、ラットは鮮明に感じ取っていたのだ。
二人の間には圧倒的な力量差があった。
暴走して理性を失った獣、ただ動く標的を本能で追い詰めるマリア。
かたや自分の力を掌握した少年のラット。
今のラットにとって、獣化したマリアであっても恐るべき相手ではない。
それゆえに、ラットは戦いながら考えていた。
なぜ彼女が暴走してしまったのか。
――薬液を飲んでから診療所を訪れたというのか?
――それとも別の何かが作用したのか?
ラットは知っている。
あのルナスクスという薬品を自分も舐めたことがある。
あの雨の劇場で、狼の姿のまま、一滴だけ舐めたことがあるのだ。
直後、体は膨れ上がり、人狼のような姿となった。
だが暴走などしていなかった。
確かに、理性を持ってリリーを守っていた。
では今のマリアは、なぜここまで理性を失っているのか、その違いは何か。
ひとつ思い当たるのは、今夜の“満月”だ。
劇場の夜は雨が降っていたが、今この場所には雲の切れ目から、満月が高く輝いている。
その光が、彼女の暴走を加速させているのではないか。
そんな思考を巡らせているうちに、空にひとかたまりの雲が流れ、満月の光がわずかに欠けた。
そのとき、執拗にラットを追っていたマリアの動きが、一瞬だけ緩んだのだ。
ラットは低く呼びかける。
「キミはいったい、なぜこの診療所に来たんだ? 本当にリリーに謝りたいと思っていたんじゃないのか?」
赤く光っていたマリアの瞳が、かすかに黄色く、元の色に戻りかける。
その瞳は、泥水に映る自分の姿を見つめているようだった。
口元から流れる声は、哀れみさえ感じさせていた。
だが、その束の間の静寂を切り裂くように、夜風が雲を押し流し、満月の光が二人を照らし出すと、マリアの表情は一瞬で獣のものへ戻ってしまったのだ。
――やはり、暴走を引き起こしているのは月明かり……!
ラットの推測は確信へと変わった。
彼女はきっとリリーの部屋でフードを外し、月光を浴びてしまったのだ。
それが引き金となった。
ならば、やることはひとつ。
夜明けまで、もしくは雲や雨が再びこの町を覆うまで、マリアとこの演目を演じ続けるしかない。
「さあ、夜明けまで付き合ってもらうよ」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
もし少しでも内容が面白かった、続きが気になると感じていただけましたら、ブックマークや、画面下部の『☆☆☆☆☆』を『★★★★★』に変えていただければと思います。
ブックマークや星の評価は本当に励みになります!
どんな小さな応援も感謝します、頂いた分だけ作品で返せるように引き続き努力していきます。
これからもよろしくお願いします。




