満月の夜に①
「許せなかった……。絶対にッ――」
そこでマリアの声がぷつりと途切れた。
同時に、ラットの嗅覚が異変を捉える。
淡い体臭へ、鉄と薬の尖った匂いが一気に混じりはじめた。
――クソッ、なんだこの匂いはッ!!
彼女の胸が大きく跳ね、薄い喉がひくつく。
次の瞬間、マリアの唇から掠れた悲鳴がこぼれ落ちた。
「……ぅ、が──っ!」
言葉が途中で崩れ落ちる。
彼女の膝が砕けるように床へ落ち、背骨が痙攣し骨が弓なりに反り返る。
その骨が軋む音をラットの耳は鮮明に拾った。
――いったい、何が起きているんだッ!!
気づけば、満月の光が窓から差し込み、マリアを強く照らしていた。
訴えかけるように伸ばされた指先が震え、爪が血に濡れて長く伸びていく。
ラットは反射でリリーのベッドへ目を走らせ、白い寝顔を確かめてから、再びマリアに視線を戻した。
マリアの眼底が朱に染まる。
胸郭の奥で煮えたぎるものが脈打つように、熱い憎悪が空気を震わせ、ラットの鼻を焦がした。
「……ジェ……ラ…ル…ド」
彼女の記憶の闇に浮かぶ名が、匂いと共にラットへ届く。
憎悪が引き金となり、体内に残った薬が一気に臨界へ達していくのがわかった。
ラットは跳ねるように一歩後退し、低く構えた。
「おいっ!! 正気に戻れマリアッ!! リリーに“ごめん”って言うためにココに来たんじゃないのかッ!!」
しかし次の瞬間、ラットの呼びかけは轟音に掻き消された。
マリアの筋肉が爆ぜる勢いで膨張し、裂けた衣の隙間から漆黒の体毛が噴き出した。
骨格は悲鳴を上げて形を変え、膨れ上がる体とともに、爪は短剣のように伸びていく。
「グ、ア──アアアッ!」
凄絶な咆哮。
窓硝子が震え、薬瓶が揺れ、病室のベッドカーテンがばさりと揺れた。
ラットの喉からも唸りが洩れる。
銀の外套の内側で血が逆流するような鼓動が高鳴り、瞬時に己の戦闘本能が呼び覚まされた。
――クソッ、こんなことってッ
黒き獣の咆哮が室内に木霊した。
乾いた木卓が一息で粉々になり、薬瓶が砕けた硝子の雨と化して宙へ飛ぶ。
鉄と薬草の混ざった匂いが一気に鼻腔を満たすが、ラットは一歩も退がらなかった。
少年の姿となったラットの外套がふわりと揺れる。
爪閃が目前を裂いた瞬間、ラットは足裏で床を切り、体を紙一枚ずらしただけで斬撃をやり過ごすと
舞い降る破片が肌の端をかすめ、煌めく弧を描いて背後の壁へ散った。
――直線的な攻撃だ
ラットは一息で相手の癖を読み取った。
マリアの跳躍は驚くほど俊敏で、脚だけは飛び出して先走る。
鉛のように重い上半身が追随できず、重心はわずかに後ろへ流れる。
獣が生む圧倒的な出力に、肩と体幹の緻密な連動が伴っていない。
その“遊び”、動きの余韻を抱えたまま次の一撃へ移る一瞬の隙を、ラットは逃さなかった。
迫る第二撃目。
空気が裂ける音と同時にラットの右腕が閃き、獣の手首を正確に掴んだ。
皮膚越しに伝わる骨のきしみ、肉を抉る爪圧。
痛みが伝わる前に、ラットの筋肉はみるみるうちに固まり、腕全体で獣の力を受け止め、意図的に流れを反転させる。
床板が悲鳴を上げるほど軋み、ラットは踏み込んだ軸足で静かに重心を固定した。
そして、ラットは腰を軸に滑らかに体をねじり、集約した力を遠心力へと変換し、獣の巨躯をしなやかに弾き飛ばしたのだ。
結果、マリアは病室の壁に激突した。
石膏の壁が鈍い悲鳴を上げ、天井から床へ白い亀裂が奔った。
粉塵が月光に霞み、二つの影がゆらりと揺れる。
マリアは低い唸り声を高めると、その爪を螺旋状に振り下ろし、咆哮と共にラットへとびかかった。
ラットは踏み込みざま両腕で爪閃を受け止め、その反動を逃がすと同時にマリアの巨体を抱え込む。
そして、身を捻って窓際へ滑り込み、木枠に体重を預けると、ガラスが砕け外の冷気が一気に吹き込んだ。
そしてその勢いのまま、ラットは獣化したマリアを窓の外へ押し出した。
なんとしてもリリーからこの怪物を遠ざけたかったのだ。
短い無重力ののち、二人は泥にまみれた庭へ叩きつけられるた。
冷たい衝撃が体を突き抜けるが、これしきで沈む相手ではないことをラットはよく知っている。
そして、二匹の獣はゆっくり起き上がる。
満月の光が、円形闘技場のように濡れた芝生を照らし、対峙する影を強く浮かび上がらせた。
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