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マリア・クライン

かつて彼女は、霧雨の都レインズベールでも名の知れた裕福な家の娘だった。

父ヨアヒムは類まれな織りの才を持つ〈繊維職人〉であり、湿気と黴に悩む街に撥水布を届けては「布の匠」と称えられていた。

母アナスタシアは経理と染めを担い、夫の工房を穏やかに支える良妻として評判が高かった。


そんな家庭で育ったマリアは、朝は工房で機織りを学び、夜は街の小劇場で脚本を書き、仲間と稽古に励む、布と舞台、二つの情熱を抱える少女だった。

銀糸で縫った自作の衣装が舞台照明を受けてきらめくたび、観客席からは感嘆の息が漏れ、父母は誇らしげに拍手を送る。

誰もがこの幸福が続くと信じていた。

だが、長雨と欲望が、その銀糸を静かにほころばせていく。



雨の匂いがしっとりと染み込むレインズベールで、クライン工房は毎朝一番に機織り音を響かせていた。

父ヨアヒムが生み出す撥水布は、どんなに湿った環境でも黴に屈しない誇りの布だ。

母アナスタシアは染料鍋をゆっくり混ぜ、霧色の糸に微かな甘い香りをしみこませていく。

幼いマリアは余った糸くずを集めては、小劇場のための衣装をこっそり縫うのが密かな楽しみだった。

くすんだ街並みに、銀糸で少しでも光を灯せたら。

幼心のそんな祈りが、家族の日々を明るく包んでいた。


だが、そんな穏やかな日々は長くは続かなかった。


急激に撥水布を作るための環境が悪化したのだ。


長雨が続き、だが撥水布の原料が仕入れられないのは、天候のせいばかりではなかった。

工房宛ての材料は「検品待ち」と言われて倉庫の奥に積まれ、手元に届かない。

その間に、見覚えのない安物の布が市場に溢れ、ヨアヒムの上等な品だけが値を吊り上げていく。

これでは誰も買うものが居ない。


ヨアヒムは帳簿や伝票、市場の相場欄を何度も照らし合わせ、赤鉛筆で怪しい流れを囲むたび、重い息を吐いて天井を仰いだ。

水面下で誰かが糸を引いているのは、もはや疑いようがなかった。


仕入れが絞られ、原料の値だけがじりじりと上がっていく日々。

父ヨアヒムのため息は日に日に深く、重くなっていった。



雨脚が最も強まったある日、ヨアヒムは意を決し、レインズベールで最も力を持つ男、ジェラルドの屋敷を訪ねた。

広い応接間で、ヨアヒムは帳簿と織布の見本を静かに差し出す。

ジェラルドは無表情のまま書類をめくり、やがて静かな声で条件を示した。

利率は法外に高く、弱い者ほど損をする仕組みだった。


ヨアヒムは肩を落とし、両手で顔を覆った。

受け入れたくはない条件だったが、他に道はなかった。



ヨアヒムは悪化する制作環境の中で、工房の運転資金をどうにか繋いでいた。

だが、高値で仕入れた原料では、どれほど織っても利益が生まれない。

ある時期を境に、突然市場に原料が潤沢に出回るようになった。

同業者たちもこぞって布を織りはじめ、やがて市場は供給過多に陥る。

布の値段は急落し、積み重なった債務だけがヨアヒムの肩に重くのしかかった。

破産は避けられず、工房の灯りは静かに消えていった夜、ヨアヒムはただ一人、梁に縄を掛けた。

無言の遺書すら残さず、彼は短い祈りを胸に、自ら幕を引いた。


残された母アナスタシアは、夫の死を前にして急激に気力を失い、やがて病の床に臥した。

食事も喉を通らず、日に日にやつれていく母は、かつて娘マリアの髪を撫でていた手で自らの胸を押さえ、静かに呼吸するばかりだった。

とある日の明け方、マリアが枕元でその手を握ったとき、アナスタシアはかすかな微笑みを浮かべた。

けれども彼女の目は、もう遠くを見ていた。

やがて母は深い眠りについたまま、二度と目を覚ますことはなかった。


マリアの手元には、返す当てのない巨額の債務と、父がつけていた取引帳簿だけが残された。

帳簿の端には、特定の商人が同業者潰しに動いていた証拠が確かに記されていた。

すべてが仕組まれた罠だったと、後にマリアは知ることになる。


やがて、未払い債務の肩代わりという名目で、マリアはジェラルド邸に住み込み侍女として引き取られることとなる。

広い屋敷の中で彼女に与えられたのは、簡素な部屋と、淡々と繰り返される使用人の仕事だけだった。

周囲の使用人や客たちの噂話は夜毎に大きくなり、『潰した工房の娘を囲うのが趣味だ』という嘲笑が廊下の隅々にまで響いた。

その言葉は、彼女の誇りと尊厳をじわじわと削り取っていく。



侍女としての単調な日々が続く中、屋敷に珍しい来訪者が現れた。

乾いた陽射しの土地サンステンドから来た商人、ヴィクター・ソレイユ。

雨の都を嫌う者が多い中で、わざわざジェラルドを訪ねてきたという事実だけでも異質だった。

噂好きの使用人たちが囁く名を耳にしたとき、マリアの胸にはわずかなざわめきが走る。


やがて応接間から洩れる会話を遠くに拾い、彼女は獣化薬『ルナスクス』という聞き慣れぬ商品の名を知る。

理性と獣性の境界を曖昧にする薬。

その言葉は、復讐の計画を胸に抱えた彼女にとって、途方もない闇を孕む希望として映った。


商談が破談に終わった夜更け、マリアは余韻が残るヴィクターの客室へあえて足を踏み入れる。

光の乏しい部屋でヴィクターの視線が静かに止まり、翡翠色の小瓶が卓上に置かれた。

マリアは復讐のために薬を求め、対価として商人の企てに手を貸すという黙契が生まれる。

月明かりに透ける液体は、毒にも刃にも変わり得る不穏な輝きを帯びていた。



時間を置かず、ジェラルドから私的な呼び出しが届く。

理由は言うまでもなく不純なものだったが、債務の鎖につながれた彼女には拒む手立てがない。

重く沈む雨の夜、マリアは決意とともにルナスクスを懐に忍ばせて部屋へ向かった。


長い沈黙の後、ジェラルドへ向けマリアはついに両親の最期を問い質す。

得意げに語られたのは、原料を弄し市場を操り、一家を破滅へ導いた策略の軌跡だった。

その語り口に含まれた嘲りと優越感は、マリアの中で燻っていた炎へ最後の火種を投げ込む。


そして、返答を待つことなく、小瓶の封が切られる。

翡翠の液体が喉を滑った瞬間、月の魔力が肉体を裂き、抑え込んでいた獣性が姿を現す。

次の瞬間、ジェラルドの身体は鋭い爪に引き裂かれ、床に深紅の軌跡を描いていた。



最後までお読みいただき、ありがとうございます。


もし少しでも内容が面白かった、続きが気になると感じていただけましたら、ブックマークや、画面下部の『☆☆☆☆☆』を『★★★★★』に変えていただければと思います。


ブックマークや星の評価は本当に励みになります!


どんな小さな応援も感謝します、頂いた分だけ作品で返せるように引き続き努力していきます。


これからもよろしくお願いします。

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