紅に染まる手
===劇場襲撃後、レインズベールの森====
騒然とした街角から少し離れた森の入り口まで来ると、そこは一転して静寂に包まれていた。
闇の奥へと伸びる獣道に、大柄な影がしゃがみ込んでいる。
それはマリアに他ならなかった。
先ほどまで猛々しい獣人の姿だった彼女は、今は人間の女性の姿に戻りつつあった。
まだ完全ではない。
尖った耳や尾が残り、体も普段より一回り大きいままではあるが、少しずつ元の形へと収束しているようだった。
薬の力が切れてきたのかもしれない。
何より、彼女自身が強く願っていた、もう、元に戻りたい、と。
「わたしは……。いったい、なにをしていたの……」
マリアは震える声で呟いた。
手には固い感触。
いつの間にか地面に落ちていた赤黒く滲んだハンカチを握りしめていた。
このハンカチの臭いをかいでから、そのあとの記憶がない。
――赤、赤っ、あ゛あ゛あ゛――!
枝葉を伝って落ちる雨滴がぽつぽつと肩に当たるたび、マリアは自分の悔し涙が零れ落ちているような錯覚に陥った。
「私はいったい……。いったい……。誰を傷つけてしまったの……」
喉の奥から、押し殺した嗚咽が漏れる。
やめて、もうやめて、頭の中で誰かの声がする。
違う、これは自分の声だ。
冷静であろうとする理性が、泣き叫びたい衝動を必死で堪えさせているのだ。
「もう、復讐は……。終わったじゃない……。違う……。私は……。私は悪くない……」
マリアは濡れた髪をかきむしり、必死に自分へと言い聞かせた。
そうだ、自分は間違っていない。
すべてはあの男、ジェラルド・レインズウィックが悪いのよ。
彼が私からすべてを奪った。
父も、母も、幸せだった日々も……。
マリアは歯を食いしばる。
怒りが涙を押し戻し、代わりに込み上げてくるのを感じた。
「だから、私は……。私は戦うって決めたじゃない……!」
震える声で、しかしはっきりとそう呟く。
獣の毛が生えたままの拳を固く握りしめた。
マリアの脳裏に浮かぶのは、幼い頃に見た家族の笑顔。
そして暗転する記、泣き崩れる母の姿、父の無念の死。
すべてジェラルドのせい。
そう、自分は正しいことをしている。
「ヴィクター……」
マリアは忌々しそうにその名を吐き捨てた。
===満月の夜・ゾフの診療所====
劇場が襲撃された翌日、その夜は満月が輝く夜だった。
レインズベール。
その土地では満月の夜にだけ、雨は止み、雲は裂け、月明かりが街を照らすのだ。
その、雨音が息を潜める街に夜を告げる鐘が静かに響く。
ゾフの診療所は窓も戸も閉め切られ、雨音と金属と薬草の匂いだけが室内に満ちていた。
薄闇に包まれた病室の隅で、ラットは暖かい毛布に丸まって眠っている。
だが、降りしきる雨の雫はやがて雲を割り、鋭く冷たい満月光が木製の窓枠を照らし始めた。
ガラスが淡く光を灯し、床の一部に楕円形の光輪が鮮明に浮かんでいる。
その光輪がラットの顔を仄かに照らすと、彼の緩やかな寝息は一瞬にして速い呼吸へと変わっていった。
銀灰色の毛皮が光に反応し、体温が急速に上昇する。
ラットは無意識に体を小さく丸めようとし、思わず吐息を漏らした。
底にまで冷えた身体の芯から、まるで月そのものを飲み込んだような熱が全身に広がる。
骨が軋む音は聞こえなくとも、ラット自身は自分が変化し始めたことを感じ取った。
硬直していた背骨が月光を吸い込み、長い氷柱が解けるようにゆっくりとほどけた。
丸く縮こまった躯は霞を払うように伸び広がり、満ち欠けの律動に合わせて輪郭を柔らかく描き変える。
長い尾はしだいに細まり、背を覆う銀灰の毛並みは星屑のように空気へ舞い上がり、肌の上で淡い燐光を残して消えた。
脚には光の糸が絡み、骨と筋が無言の職人に縫い直されるように形を変える。
前肢の鉤爪は透き通った五指へ、後肢は膝と踵を抱く人の脚へと静かに書き換わった。
尖った口吻はひと息ごとに短く収まり、額と顎の稜線が月の削ぎ跡のようになめらかに削られて少年の面影を結ぶ。
最後に耳がふっと伏せ、肩から首へ波打っていたうねりが鎮まり、ラットは細い呼吸とともに身を起こした。
ラットはほんの一瞬だけ自分を見下ろし、変わり果てた異形の姿を確認してから気を落ち着ける。
頭上に照りつける月光が銀灰の毛並みを洗い、背を流れる長い外套は北風に舞う狼のたてがみそのものだった。
狼の毛皮を纏う少年の姿、それは満月の夜毎に、変異を繰り返す、彼本来の姿に他ならなかった。
深い眠りから覚めた彼の感覚はすべて研ぎ澄まされ、今や手足の先端まで鋭くなっている。
人狼の姿となったラットは、昏睡し続ける少女リリーの名前をそっと口に出す。
白いベットに横たわるリリーの横顔は穏やかだが、いまだ意識は戻らない。
冷えた額にかざした手には、過ぎ去った時間への焦りと惜別が混じる。
それでも、かつて優しく見つめてくれた友のぬくもりは、指先から伝わってくる。
外では雨粒が去り、周囲を静寂が満たしていた。
闇に包まれた病室でひとり、ラットは静かに少女を見守り続けた。
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