霧の獣③
それはレインズベールの森に棲むとされる伝説の怪物、そのものだった。
獣人ヴィクターも突如現れた異形の襲撃者に困惑したのか、低い唸り声を上げながら身を起こしていた。
鳥の頭を持つ怪物、誘い名の主は、ゆっくりと獣人に向き直る。
その巨体は獣人以上だ。
二体の怪物が相対し、互いに敵意を込めた咆哮を発した。
その咆哮のさなか、獣人ヴィクターが先に動いた。
怒り狂ったように地を蹴り、誘い名の主へ飛びかかる。
鋭い牙を剥き出しにし、その喉笛に喰らいつこうという勢いだ。
しかし誘い名の主は怯まない。
逆に獣人の動きを見極めたかのように、巨体に似合わぬ機敏さでひらりと横へ身を躱したのだ。
「グギャアァッ!」
夜陰を引き裂く悲鳴が轟いた。
誘い名の主の太い腕が横合いから一閃し、獣人の背を深々と斬り裂いたのだ。
熊じみたその腕力と鉤爪の一撃は凄まじく、獣人は抵抗も及ばず巨体をのけぞらせた。
直後、誘い名の主は素早くその背後に回り込み、獣人の両肩を羽交い締めにすると、そのまま猛然と宙へと跳び上がった。
重たいはずの獣人の身体が闇の中に持ち上がり、数メートル先の地面へ叩きつけられる。
地響きがし、土と血飛沫が舞い上がった。
「……すさまじいな」
ハンクは立ち上がるのも忘れ、光の先に釘付けになっていた。
「クカカカ―――カッ、ヴィクターーーーーッ!!!」
誘い名の主はなおも獣人の背中に馬乗りになり、その鳥の嘴を開いて甲高い声で鳴いた。
悲鳴のような奇声が森に谺し、ハンクは思わず耳を塞ぐ。
もはや獣人ヴィクターの方は満身創痍だった。
もがき、暴れようとするが、誘い名の主がそれを許さない。
怪物は嘴をガチガチと鳴らしながら大きく爪を振りかぶった。
「あッ!! おいッ……! 証拠ッ!!」
ハンクが思わず叫んだ。
その言葉が届く間もなく、ざぶり。
嫌な音がして、獣人の動きがピタリと止まった。
誘い名の主の右腕が獣人の背中深く突き立てられている。
狂おしいまでに暴れていた獣人の体は痙攣し、そしてがくりと力を失った。
鳥の頭を持つ怪物はゆっくりと腕を引き抜く。
赤黒い血がずるりと流れ、ヴィクターの獣人の姿が見る間に萎んでいった。
怒りに燃えていた真紅の瞳は色褪せ、人間のものへと戻りつつある。
半獣半人の姿のまま、ヴィクターは大地に沈黙したのだ。
数瞬の静寂。
雨音だけが世界を支配する。
ハンクは呆然と立ち竦んでいた。
生き残った僅かな警官たちも息を呑んだまま硬直している。
ようやくハンクは我に返り、猟銃を構え直した。
まだだ、そこにはこの森の中で最も凶暴な獣がいる。
新たな脅威が目の前に佇んでいるのだ。
猟銃の銃口を怪物に向けようとしたその時だった。
「……ッ」
闇の中で金色の双眸がぎょろりとこちらを向いた。
誘い名の主がゆっくりと立ち上がり、ハンクたち生存者の方へと向き直ったのだ。
ハンクは喉を鳴らし、後ずさる。
鳥の嘴を持つ異形は、一歩、また一歩とこちらに近づいてくる。
巨大な足が地面に踏みしめられるたび、びしゃりと血混じりの泥水が跳ねた。
ハンクは震える手で猟銃の引き金に指を掛けた、が、次の瞬間。
「オマエ……、あのオオカミのニオイいする……。……キライ」
低く濁った声が森に響いた。
ぞっとするほど人間臭い言葉。
それが誘い名の主の口から発せられたのだ。
怪物はハンクを真っ直ぐ見据え、短くそう吐き捨てると、ふいと身を翻し、獲物として捕らえたビクターを巨大な嘴に咥え、そのまま闇の彼方へ跳躍してしまった。
地面を蹴る巨躯は信じられぬほど素早く、先程まで無音で忍び寄ったように、今度は黒い影となって森の奥へ遠ざかっていく。
雨のカーテンの向こう、木々の間にその異形が消え去るまで、ハンクは茫然と立ち尽くしていた。
「……ハンクさん!」
はっとして顔を上げると、生き残った警官の一人が駆け寄ってきた。
裏手に回った三人組の最後の生存者だったようだ。
「大丈夫ですか!」
彼はハンクの傷ついた左腕を見て顔色を変える。
ハンクはようやく息を吐き出した。
「……ああ、かすり傷だ」
布を破り応急的に左腕に巻き付けながら答える。
しかし視線は地面に倒れ伏した者たちから離れない。
「皆は……?」
問うまでもなかった。
辺りには無残な姿の警官たちが横たわっている。
警部補の首からは大量の血が流れ、若い警官は胸に大穴を穿たれたまま動かない。
裏から来た者も含め、確認するまでもなく5名全員が絶命していた。
生き残ったのはハンクと、そして駆け寄ってきたこの一人だけだった。
彼も肩を負傷しているようで顔を痛みに歪めている。
「くそ……」
ハンクは悔しさに拳を震わせた。
獣を狩るための猟師が、獣にまったく刃が立たなかった。
その無力さが骨身に染みる。
だが今は嘆いている場合ではない。
「お前は先に森を出ろ」
ハンクは続ける。
「ジョナサンにこのことを伝えてくれ。負傷者が二名、生存は自分たちだけだと伝えるんだ。俺は……」
そう言いかけたとき、不意に視界の端に妙なものが映った。
猟師小屋の入口、その敷居近くの地面に、不自然に光る液体の跡があった。
紫とも青ともつかぬ妖しい色彩、ハンクははっとした。
ヴィクターが飲んでいた薬液瓶の液体だ。
獣人へと変貌させたあの薬品の残滓が、雨水に薄められながらもまだ土の上に残っている。
ハンクは周囲の警戒を怠らぬよう目配せしつつ、そろそろと小屋の前へ歩み寄った。
苔むした戸口の傍らに、ガラスの破片が散らばっている。
その中心にわずかに溜まった紫青の液体が輝きを放っていた。
ハンクは上着の内ポケットから小さな金属製の小瓶を取り出すと、慎重にその液体をすくい入れる。
「ハンクさん、いったい何を……?」
「証拠だ」
ハンクは自分の後ろで怪訝な声を上げたる警官に短く答えた。
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