霧の獣②
肉を切り裂く生々しい音。
獣人の腕が振り払われ、最前列にいた警部補の首があり得ない方向にひしゃげていた。
鉤爪が一瞬にして喉元を掻き裂いたのだ。
噴き出した血が雨に濡れた地面にぱっと飛び散る。
警部補は短い悲鳴すらあげられず、その場に崩れ落ちた。
「くそッ……。化け物め!!」
隣にいた若い警官が恐怖を必死に押し殺し、至近距離から弾丸を撃ち込む。
しかし獣人の動きは素早かった。
獣人ヴィクターは、人間離れした俊敏さで跳躍すると、若い警官に馬乗りになる。
逃れる間もなく巨躯に押し潰された警官が短い悲鳴を上げた。
だが獣人ヴィクターは容赦なくその巨大な爪を振り下ろす。
肉が引き裂かれる音とともに、地面に赤黒い液体が広がる。
「引けえぇぇぇぇッ!! 一旦距離を取るんだ――ッ!!」
裏手に回っていた組のひとりが小屋の角から駆けつけ、叫んだ。
だがその声も空しく、獣人は既に次の獲物へと襲いかかっている。
ハンクは茂みの陰から必死に猟銃を構え直した。
しかし混乱の中、標的を捉えきれない。
暗闇と雨の中で人影と獣の巨体がもつれ合い、悲鳴と怒号が錯綜していた。
ランタンの光が激しく揺れ、苔むした小屋の壁に巨大な影が踊る。
ちらつく光の中、ハンクは数秒遅れて地獄絵図を目の当たりにした。
獣人が次々と警官たちを瞬殺していく、まさにその言葉通りの惨劇だった。
裏から駆けつけた警官のひとりが、至近距離でヴィクターに銃弾を撃ち込んだ。
しかし、返り討ちだった。
獣人はほとんど瞬間移動したかのように警官の懐に踏み込み、その腹部に腕を突き立てる。
ずぶり、と太い腕が背中側まで貫通し、警官は目を見開いたまま絶命した。
別の警官が恐慌をきたしつつも棍棒を振りかざして背後から殴りつけたが、獣人はびくともしない。
振り返りざま一薙ぎにその警官の胸を爪で引き裂いた。
悲鳴とともに警官は大木にもたれかかるように崩れ落ちる。
胸からは鮮血がとめどなく流れ、目はすでに虚ろだった。
「な、なんてことだ…!」
ハンクは喉の奥で呆然と呻いた。
あっという間の出来事だった。
ほんの十数秒ほどの間に、すでに何人もの警官が地に伏している。
これが“ルナスクス”の力なのか、人知を超えた凶暴な殺戮者。
それはこの森に住む、伝説の怪物にも劣らぬ恐怖を振り撒いていた。
ハンクは震える手で猟銃の引き金に指をかけた。
猟師は本来、獣を相手取る職業だ。
そのため人の姿をしていたヴィクターに対して、これまでどうしても引き金を引くことにためらいがあった。
しかし今、目の前にいるのは、もはや人ではない。
自分が命を懸けてでも立ち向かわなければ、誰も生きてこの森を出られない。
目の前の獣は本来、猟師が狩るべき存在だと、ハンクは覚悟を決めていた。
雨の降る森、闇の中、混乱に乗じて見失った獣人の位置をハンクは探る。
その時、かすかな気配を感じて振り向いた。
「――ッ!」
獣人の真紅の双眸が、すぐ近くでギラリと光った。
いつの間にか、ハンクの背後に回り込まれていたのだ。
獣人ヴィクターの鉤爪が振り上げられる。
反射的にハンクは猟銃を肩に構え、引き金を絞った。
銃声が間近に轟き、火花が闇を裂いた。
だが弾丸は、まるで岩を撃つかのように獣人の肩で跳ね返された。
一瞬の怯みすら与えられぬまま、獣の鉤爪が振り下ろされる。
咄嗟の判断で体を捻ったが、避けきれなかった鉤爪がハンクの左腕をかすめ、服ごと斜めに裂いた。
熱い痛みが走り、左腕から鮮血が滴る。
「ぐぅっ……」
ハンクは呻き、後方へ倒れ込んだ。
背中に湿った土の感触。
猟銃が手から滑り落ちる。
しかしそれどころではない。
眼前にそびえ立つ獣人の巨影が、大きく腕を振りかぶっていた。
――もはや躱せない。
――ここまでか……!
ハンクの脳裏に娘の顔が浮かんだ。
せめて生き延びてくれ、心の中で叫ぶ。
そんな時だった。
「ギャルルルァァッ!」
獣じみた咆哮とともに、闇の中からさらに巨大な影が飛び出したのだ。
ハンクを押さえ込まんとしていた獣人ヴィクターが、その影に横合いから激しく体当たりされる。
「――何だッ!?」
ハンクは衝撃に目を見開いた。
暗闇の中でもはっきりと分かる桁外れの巨体。
そいつは獣人にも劣らぬ巨躯を持ちながら、全く無音で忍び寄ってきたのだ。
二つの巨影が地面を転がり、木の根にぶつかって止まる。
闇の中で蠢く影から、低いうなり声が聞こえた。
ハンクは慌てて地面の猟銃を這うように拾い上げ、震える手でランタンを探した。
幸いにも、血に染まった地面でそれはまだ光を放っていた。
ハンクは左腕の痛みに耐えつつランタンを掴み、二つの影に光を向ける。
「……!」
そして、目の前の光景に言葉を失った。
そこには獣人とは違う別の怪物が立ちはだかっていたのだ。
そいつはまるで巨大な熊のような胴体に、異様に大きな鳥の頭部を載せている。
闇夜でなければ到底隠れようもない異形、眼光はぎらぎらと黄色く光り、鋭い嘴が月光を反射していた。
その羽を纏う逞しい両腕には獣人に勝るとも劣らない凶悪な鉤爪が生えている。
ハンクは息を呑んだ。
まさか、また出会うことになるとはな。
――誘い名の主!!
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