霧の獣①
「おい、どうする?」
警官の一人が不安げに声をあげた。
そんな時だった、不意に小屋の中からガタン、と物音がしたのだ。
「……っ、中だ!」
ハンクははっとして小屋の扉に目を向けた。
今の声に反応したのか、小屋の中で動きがあったようだ。
固唾を呑んで見守ると、軋んだ音とともに木の扉が少しだけ内側から開き、隙間から誰かの姿が覗いた。
「出てくるぞ……!」
ハンクは猟銃を肩付けし、扉に狙いを定める。
警官もランタンの光を扉へ当てる準備をした。
扉がゆっくりと開き、一人の男が姿を現した。
シルクハットに上等な旅装束、間違いない、ヴィクター・ソレイユだ。
森の暗がりの中でも、その端正な顔立ちは記憶に残っている。
ヴィクターは小屋の入口に立ち、警戒する様子もなく周囲を見回した。
否、その双眸はどこか遠く、闇の向こうに焦点を合わせている。
何かを探すように。
「……リヒターか?」
ヴィクターが低く呟いた。
聞いたことのない名だ。
まるで誰かと交信するかのように、ヴィクターは虚空に向けて静かに語りかけている。
「そうか、お前、生きていたのか……。馬車が襲われた時はどうなることかと思ったが」
その声音には安堵すら滲んでいた。
ハンクは射撃姿勢を保ちながら訝った。
――まさか本当に仲間がいるのか?
しかし姿は見えない。
裏手に回った組も何も報せてこないところを見ると、接近者はいないはずだ。
それなのに彼は誰と言葉を交わしている?
「ヴィクター・ソレ――イユ!」
ハンクは低くしかしはっきりと名を呼んだ。
静寂を斬り裂くような声音に、ヴィクターがハッとこちらへ顔を向ける。
闇の中で目が合った。
「……おや」
彼はすぐに薄笑いを浮かべ、ハンクたちを見渡した。
「こんな夜更けに大勢で押しかけるとは。歓迎されている気分ではありませんね」
緊張した空気の中でも、彼の声色はどこか余裕めいていた。
「劇場を襲撃したのはキサマの仕業だな。おとなしく降伏しろッ!」
「劇場を襲撃? いやはや、私はただ、この森に迷い込んだ旅人にすぎない、そうでしょう、ハンクさん?」
「何を言ってやがる、俺は見たぞ。キサマが劇場で……ッ」
「黒い獣を劇場でみて、それを私が連れている。あなたはそう言いたいのだ」
ヴィクターはまくし立てる。
「だが、あなたの直感がそれを否定した。そうでしょう? 獣の足跡はいったいどこへ?」
暗がりの中、突然名を呼ばれ、ハンクは眼を細めた。
「……言い逃れはできんぞ。ジェラルド殺害について、貴様に話を聞かせてもらう」
ハンクの低い声に、ヴィクターは「フッ」と鼻で笑った。
「ああ、あの豪商の件ですか。お気の毒なことでしたねぇ。ですが私は何も知らない。ただ取引が破談になったから帰ろうとしただけなのに、こんな厄介事に巻き込まれるとは迷惑な話だ」
「黙れ」
ハンクは鋭く言い放った。
「こちらは証拠を掴んでいるんだ。観念しろ」
ハッタリとばかりの物言いだったが、ハンクの声には確信が宿っていた。
ヴィクターの薄笑いがわずかに引き攣る。
「証拠、ですって?」
彼はゆっくりと言葉を反芻した。
「なるほど……。何を掴んだのかは存じませんが、私としては残念です」
そう呟くと、ヴィクターはふと視線を遠くの闇へと彷徨わせた。
先程声のした方角だ。
彼の口元には奇妙な笑みが浮かんでいる。
「動くな!」
警部補が一歩前に出た。
「手を頭の後ろに組んでッ!!」
だがヴィクターはその言葉に反して、ふと懐に手をやり、小さなガラス瓶を取り出した。
その動きに警部補が鋭く声を荒げる。
「何をしている! 動くなッ!」
そしてヴィクターは自身を取り囲む者たちに向けて、瓶を掲げるように見せつけた。
「薬ですよ。飲んでもよろしいでしょうか?」
警部補は銃口を向けたまま眉をひそめる。
「……なぜだ?」
「この土地は寒くてどうも体調が落ち着かないのです。それに、あなた方に連行されれば、次にいつ解放されるかわかりませんから。せめて体調を整えておきたい」
警官たちは互いに顔を見合わせた。警部補はしばし躊躇したが、「……まあ、ひとまずいいだろう」と短く答えた。
ヴィクターはゆっくりと瓶の蓋を外し、中の液体を喉に流し込んだ。
「……もう飲み終わったのか。抵抗する気がないなら我々についてきてもらう。詳しい話は本部で——」
警部補がわずかに警戒を解きかけた、そのとき。
「……ククク……」
ヴィクターの口元から、不気味な含み笑いが漏れた。
瞳に異様な光が灯り、顔つきがみるみる歪んでいく。
「何がおかしい?」
警部補が不審げに問いかける。
ヴィクターは肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。
その目は、すでに常人のものではなかった。
「ハハハ……証拠ならば、これで十分でしょう!」
笑い声は狂気に満ち、周囲の空気が一瞬で張り詰める。
「見せてあげましょう……サンステンドの秘術、ルナスクスの力を!」
「ルナスクス……?」
ハンクは聞き慣れぬ言葉に眉を寄せた。
その間にも、ヴィクターの体に異変が生じ始めていた。
ヴィクターの身体を覆い隠すように霧が立ち込め、不気味に青白く光り出したのだ。
「撃て!」
危機を察した警部補の叫びが森に響き渡る。
その声に応じて、数挺の拳銃が一斉に火を噴いた。
赤い閃光が闇を裂き、雷鳴のような銃声が木立に反響する。
だが――
「ぐ……ぁぁああああッ!」
苦痛とも歓喜ともつかぬ凄絶な雄叫びが、森の闇に木霊する。
その直後、銃弾がヴィクターの身体に跳ね返り、乾いた岩を叩くような鈍い衝撃音が闇を貫いた。
照らし出された光景に、ハンクは目を疑った。
ヴィクターの身体が瞬く間に異形へと変貌していく。
背丈は倍にも膨れ上がり、上等な旅服は音を立てて引き裂かれた。
隆起する筋肉とともに腕が太く伸び、その指先、いや、もはや鉤爪と言うべきものが鋭く尖っていく。
顔は断末魔の如き咆哮とともに前方へせり出し、鼻口は獣の吻へと変わり始めた。
牙が剥き出しになり、両目は血のように真紅に染まっている。
全身をざらついた濃紺の体毛が覆い、先ほどまで人間だった面影はもはや皆無だ。
そこに佇むのは巨大な狼にも似た獣、いや、獣人の怪物。
ハンクはこれこそが、霧の獣の正体だと悟った。
「化け物だ、撃て撃てぇ――ッ!!」
若い警官が半ば悲鳴じみた声を上げ、再び引き金を引いた。
他の者も我に返り、銃弾を浴びせる。
辺りに閃光と轟音が立て続けに炸裂した。
しかし獣人と化したヴィクターは恐るべき速さで身を翻し、その場から飛び退いていた。
銃弾の幾つかはかろうじて獣人の肩や胸を捉えたように見えたが、まるで効果がない。
獣人は狂笑するように低く唸り、真紅の瞳で警官たちを睨みつけていた。
そして、次の瞬間、闇が跳ねた。
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