森へ②
木立の中は昼なお暗く、陽光は厚い雲と天蓋の如き枝葉に遮られて地表にほとんど届いていない。
頼りになるのは数挺のランタンが照らす白い光の輪だけだ。
湿った土と朽ち葉が幾重にも積もった地面は柔らかく、踏むごとにぐちゅりと音を立てて足を沈める。
ハンクは先ほどの足跡を見失わないよう慎重に進んだ。
雨粒が葉先から滴り落ち、時折、ぽた、ぽた、と肩口に冷たい雫が落ちてくる。
鬱蒼とした森の奥は静まり返り、生き物の気配は希薄だった。
虫ですら声をひそめているような静寂、まるで森全体が息を潜め、侵入者たちを窺っているかのようだ。
「……足跡は続いてますかい?」
後ろから年配の警官が抑えた声で問うた。
ハンクはランタンの光を足元に向けたまま軽くうなずく。
「ああ、間違いなく森の奥へ延びている。この先に進んだようだ」
ぽつりぽつりと会話を交わしつつ、一行はゆっくりと前進する。
木の幹にはびこる苔が濡れて鈍く光り、絡みつく蔦が行く手を阻んだ。
ハンクは手に持つ猟銃を器用に使い、銃床で邪魔な蔦を払いながら進んでいく。
次第に勾配が険しくなり、岩混じりの斜面に差しかかると足跡が乱れてきた。
岩を踏み外したのか、土が滑った跡がある。
「足を滑らせてるな……。ヴィクターが急いで逃げた証拠だ」
ハンクは呟き、岩肌に手をついて慎重に歩を進める。
他の警官たちも口を結んでそれに続く。
どれほど進んだだろうか。
森に入ってからまだ十五分ほどしか経っていないはずだが、全身にじっとりと汗をかいているのをハンクは感じていた。
雨に濡れたせいばかりではない。
じわじわと胃の底に重たく沈む不安。
森の奥へ踏み入れるごとに、その感覚は強まっていた。
――あいつにだけは出会いたくない。“誘い名の主”にだけは……。
嫌でも過去の記憶が脳裏をよぎる。
リリーとラットが森へ迷い込んだあの夜、森で遭遇した得体の知れない怪物。
そして最愛の妻マリーの命を奪った真犯人。
ハンクは奥歯を噛み締め、意識的に頭を振った。
いま目指すのは怪物ではない。
“人間”ヴィクター・ソレイユだ。
そう自分に言い聞かせ、獣道の曲がり角に差しかかる。
先頭のハンクが立ち止まったことで、背後の警官たちも足を止めた。
「どうしました?」
ハンクは人差し指を立てて警官達を黙らせた。
前方の木立の隙間から、ぽつんと開けた小さな空間が見える。
暗い森の中に、不自然な直方体の影、建物だ。
「小屋がある」
ハンクはささやいた。
警官たちの間に一瞬緊張が走る。
「猟師小屋か何かでしょうか?」
「この森では猟師が休息に使う古い猟師小屋がいくつかある。恐らくその一つだろう」
ハンク自身、この森で活動する際に猟師小屋を利用している。
雨宿に使われるだけの質素な丸太小屋。
ハンクは小屋の様子を窺うため、身を低くして茂みからそっと覗いた。
鬱蒼とした木々に囲まれた空き地に、その猟師小屋はひっそりと建っている。
壁面は湿気で黒ずみ、ところどころに緑の苔がこびりついていた。
屋根は木の板張りだが、一部が朽ちて穴が開いているのか、雨水がぽたぽたと滴り落ちているのが見える。
建物自体は小さいが、扉や窓枠は頑丈そうだ。
正面には木製の扉がぽつんとあり、窓は一つだけ、しかし今は中から板で塞がれているようだった。
中からは灯りは漏れていない。
内部に人がいる気配もないが、足跡は明らかにその小屋へ向かっていた。
「間違いなくあの中だな」
ハンクが囁くと、警官たちも息を呑んで小屋を見据えた。
「包囲しましょう」
隊長格の警部補が決断し、手振りでそれぞれに合図を送る。
「二手に分かれる。三人は反対側に回って裏口と窓を押さえろ。残りは正面だ」
警部補の指示に従い、警官たちは素早く動いた。
三人が音を立てぬよう遠巻きに右手から小屋裏へ回り込む。
残る三人とハンクは正面の茂みに身を隠した。
ハンクは猟銃の火薬を再度確かめ、ランタンの明りを消す。
辺りは闇が支配し、雨音だけが沈鬱に響いた。
やがて裏へ回った組から、鳥の鳴き真似の小さな合図が聞こえた。
全員配置についたことを告げるサインだ。
ハンクはそれに頷き返し、拳で合図する“突入準備”と。
若い警官達が片手でランタンを構え、もう片手で拳銃を持ってハンクの隣ににじり寄った。
警部補もハンクの反対側にピタリと寄り添い、いつでも扉に飛びかかれる体勢だ。
全員の喉が緊張でごくりと動いた。
そんな時だった。
「ヴィ――ク――ォ……」
不意に、森の奥のさらに暗い木立から、人の声が響いたのだ。
低く湿ったその声は、不自然な抑揚のある異国の言葉で何事かを呼びかけているようだった。
「……!」
ハンクはハッとして顔を上げた。
――今のは誰の声だ?
「今、誰か叫びませんでしたか?」
「……気が付かれているのか」
ランタンを持つ若い警官が小さく眉をひそめる。
他の警官たちも互いに顔を見合わせている。
確かに、人の名を呼ぶような声、しかも「ヴィクター」と聞こえた気がする。
ハンクは周囲の暗闇に神経を研ぎ澄ませた。
まさか別の仲間がいるのか?
それとも……。
「ヴィクター!……ォォ…」まただ。
闇の向こう、何十メートルか先の木々の間から声が木魂する。
雨音に混じってはっきりしないが、確かに誰かが「ヴィクター」を呼んでいる。
しかもどこか奇妙な抑揚と響き、まるで井戸の底から響く声のようでもあった。
ハンクは嫌な胸騒ぎを覚える。
この森で名前を呼ぶ声……“誘い名の主”という言葉が脳裏をかすめた。
――誘い名の主がヴィクターを狙っている。
――あるいは、ヴィクターの仲間かもしれない。
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