森へ①
第五章 森へ逃げ込む謀略
夜明け前から降り続く雨が瓦屋根を細やかに叩き、レインズベールの空は鈍色に沈んでいた。
昨夜の劇場を襲った惨劇を思い返しながら、ハンク・ウィルソンは拳を握りしめる。
黒き獣に弾き飛ばされた娘リリーは頭部を強打し、街外れのゾフの診療所でいまだ昏睡のままだ。
薬草の湿った香りと猟銃に宿る鉄の匂いが入り混じる室内で、リリーの指がわずかに動くたび、ハンクの胸は安堵と焦燥の間で揺れた。
やがて夜明けを告げる三度の警笛が遠くで鳴り、主任刑事ジョナサンが駆け込んできた。
レインズベールの森の入口でヴィクター・ソレイユの馬車が発見されたと。
馬車の荷台には豪商ジェラルド・レインズウィック邸から持ち出されたと思しき革装丁の帳簿が血と泥にまみれて落ちていたという。
細密な筆致で綴られた取引記録と債権、それは換金できれば一財産になる代物だが、同時にヴィクターを繋ぎ止める確かな証拠でもあった。
雨がすべてを洗い流す前に足跡を追わなければならない、ジョナサンはハンクへ詰め寄る。
ハンクはジョナサンの鋭い眼差しを受け止め、低い声で言った。
「あぁ、それは雨が証拠を流す前に動かなければいけないというのは良くわかっているさ。だが……。俺はリリーの傍を離れたくない」
「ヴィクターだけであれば我々警察組織で対処できるがな、ハンク。問題はビクターが連れている<<霧の獣>>だ。やつら突然姿を現しやがる。あれも狩猟本能がなせる業なのかわからないが。いかんせん獣相手となれば、猟師であるキミの力が必要不可欠だ」
ハンクは唇を噛みしめ、次にリリーの頬へ視線を向けた。
リリーの隣では小さな体を伏せたラットが静かに息を整え、傷を癒すように目を細めている。
猟師としての腕前を誇る以前に、自分はどれほど有能な存在なのか。
毎日豪雨の森を、薬草ひと握りのためにさまよい、何度も闇に呑まれそうになった。
そのたびに生き延びられたのは、この小さな狼が導いてくれたからだ。
俺ひとりの力など、あの雨の森の中でどれほど役に立つというのか。
だが、ヴィクターを放っておけば、この町にどんな災いを呼び込むかわからない。
これ以上の被害者を出すわけにはいかない。
ハンクは、胸の詰まる思いで、ラットの額に手を置いた。
「ラット……。お前もまだ傷が癒えぬままか。すまない」
丁寧に整った毛並みを撫でると、ラットは目を細めて頭を預けた。
そのままハンクはゾフのほうへ振り返り、声を潜めて尋ねる。
「ゾフ、リリーの容体は本当に安定しているのか?」
「なんじゃおぬし、ワシの腕を疑っておるのか。頭を打っておるが、側頭部のキズは大したことなかった。今は、薬草も効いておるし、そのうち意識を取り戻すじゃろう」
ハンクは胸を撫で下ろしつつ、再びジョナサンへ視線を送る。
「ゾフ、動物は専門外かもしれないが、二人のことを頼んだぞ」
そんなハンクをみてジョナサンは、ランタンを差し出した。
ハンクはそのランタンを受け取ると、猟銃を肩にかつぎ、深く息を吸う。
そして、ゆっくりと診療所の扉を押し開けた。
===レインズベールの森===
鬱蒼と生い茂る森の入り口に、猟師ハンク・ウィルソンは静かに佇んでいた。
肩には冷たい雨がしとしとと降りかかり、林間に漂う霞が足元を白く煙らせている。
薄暗い樹々の下、彼の周囲には六人の警官たちが緊張した面持ちで配置についていた。
主任刑事ジョナサンは後方で指揮を執るため、ここから先へ踏み込むのはハンクと六人の警官だけだ。
ハンクは湿った土に目を落とした。
森の入り口の泥土にはっきりと残る足跡が一列につながっている。
人間の足跡だ。
それも大小混じりではなく、一人分のものしかない。
ハンクはしゃがみ込み、その足跡に指先を触れた。
靴底の跡からして革靴だろうか。
深さから見て急いで踏み込んだもののようだった。
周囲に獣の四足痕は見当たらない。
不意に胸の内に疑念が湧き上がる、“霧の獣はどこだ?”。
――ヴィクター霧の獣を従えていたはずだ……。
ならばこの足跡の主はなぜ獣の足跡を残していないのか。
ハンクは目を細め、奥へと延びる薄闇の獣道を睨んだ。
「……ウィルソンさん、どうしました?」
背後から若い警官の声が低く囁く。
ハンクはゆるりと立ち上がり、「ああ、足跡がな」と小声で答えた。
「人間一人分しかない。奴は馬車を捨てて徒歩で逃げこんだようだ」
そう言ってから森の空気に改めて意識を研ぎ澄ます。
ひんやりと湿った風が吹き抜け、常緑樹の葉が、ざわ…、ざわ…、と不穏に揺れた。
鼻腔をくすぐるのは腐葉土と苔の匂い、そして、何か得体の知れない気配だ。
ハンクの前方では二頭の猟犬が警官に引かれていたが、その犬たちが森へ入るのを激しく嫌がっていた。
鼻先を低く下げ、尻込みするように唸り声を漏らしている。
普段ならば頼もしい追跡者である猟犬たちが、まるで見えない壁に阻まれるかのごとく前進を拒んでいた。
「ちっ、どうしたんだ……」
犬を連れていた警官が苛立たしげに手綱を引くが、犬は後肢で地面を掻き、縄を振り切らんばかりに後退してしまう。
異様な雰囲気に首をかしげた別の警官が言った。
「何か怯えてるみたいだな。やはり、森へ入った経験がない猟犬じゃだめか」
半ば冗談めかしていたが、その声は少し震えている。
ハンクは森の奥から吹く風に肌があわ立つのを感じながら、密かに思った。
ラットならば、自分の忠実な満月狼である相棒ならば、この程度で怯まず進んだだろう、と。
だがラットはいない。
彼は今頃、未だ目覚めぬリリーの傍らで寄り添っているはずだ。
ハンクは遠く街の方角を一瞬だけ振り返った。
倒れた娘の姿が脳裏に浮かぶ。
リリー、お前は必ず守る……。
静かに心に誓い、ハンクは目の前の闇へ意識を戻した。
「犬はここに繋いでおけ。無理に連れて行っても足手まといになる」
ハンクは短く指示を出す。
犬を扱っていた二人の警官もうなずき、嫌がる猟犬たちを入り口付近の木につなぎ留めた。
「我々六人で奴を追う。他の者は銃を抜いて警戒しておけ」
小隊の隊長格である警部補が声を潜めて命じ、全員がランタンを片手に、拳銃を構える。
ハンクは手にした猟銃の重みを確かめつつ、先頭に立って獣道へと足を踏み入れた。
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