焦燥
「黒い獣が逃げるぞ! 奴を逃がすなッ!」
雨幕を裂く号令に、複数の足音と警笛の甲高い合図が重なった。
警官たちはランタンを掲げ、濡れた外套を翻しながら角を曲がり、闇へ消えた黒影を追う。
石畳に反射した灯りが揺れて路地は刹那黄金に染まるが、ハンクの視線はその残光を突き抜けて娘のもとへ吸い寄せられた。
「リリー!」
心臓が胸壁を叩き、視界の端で世界がにじむ。
滑りやすい泥の上に膝をつき、ハンクは両腕でリリーを抱き起こした。
彼女の体温は雨に奪われ、冷たい粘土のように軽い。
額をかすめた裂傷から血が雨水に混じり、栗色の毛の隙間を赤く染めて滴った。
「しっかりしてくれ、戻ってこい……!」
耳を澄ませても返るのは自分の荒い呼吸だけ。
胸骨の奥で、爆ぜるような痛みが走る。
足元で狼が短く鳴いた。
灰色のラットが小さな体を震わせ、泥に伏していた。
濡れた毛が体に貼り付き、呼吸は擦れる笛の音のようにか細い。
ハンクは片腕でその細い胴を抱え、掌で掠れた耳根を撫でた。
「……おまえ、無謀なことを。すまない……。リリーを守ろうとしたのか……」
振り向けば、雨煙の向こうからジョナサンが駆け寄ってきていた。
その手にしたランタンが大きく揺れ、橙の光輪が地面を踊った。
「ハンク、娘さんは無事か?」
「わからない、頭を打っているようだ。早く手当てをしないと……。それに、ラットもひどい怪我だ」
「すぐに担架と医師を手配する。確かお前が寝泊まりしている診療所の医者は名医だったな」
そういってジョナサンは即座に手を挙げ、部下に担架と医師を呼ぶように叫んだ。
警笛が三度鳴らされ、遠くの通りで応答の笛声が返った。
「ハンク。お前の目からみて、獣は何体に見えた」
「何をいっているんだ、こんな時に」
「こんな時だからだ。部下の証言では獣は二体いたというものもいる」
「ヴィクターだ、あいつが手引きしていたに違いない」
ハンクの言葉には確信があった。
ヴィクターが二足で立つ巨大な狼にも似た獣を携えて劇場を襲ったに違いないと。
劇場前で見かけた瞬間に直感したのだ。
そして胸の奥で復讐の炎が燃え上がるのを感じていた。
――もし次に奴を見つけたなら、俺の手でその獣を始末してやる、と。
そんな、彼の感情を汲み取ってか、ジョナサンが今も尚、愛娘の手を固く握るハンクへ声をかける。
「私の見解も同じだ。ヴィクターが森へ逃げたという証言もある。獣を追い詰めるのが猟師の宿命だろう。明朝に捜索隊を出す。危険な任務だ。お前にも加わってもらいたい」
「あぁ……」
ハンクは静かにうなずいた
娘の小さな胸の鼓動を感じながら、看病したい衝動が胸を裂くように疼く。
しかし、本当に必要なのは名医であるゾフの手当てだと。
自覚が冷たく胸を打った。
自分がそばにいても、ただ椅子に座って見守るしかできない無力さを痛感するだけだ。
ならばリリーが目を覚ます時、彼女のために獣を倒したと胸を張って言える方がいいはずだ。
それゆえにハンクは深く息を吸い込み、静かに頷いたのだった。
やがて担架が到着し、二人の若い巡査がリリーを慎重に乗せ、次いで小さな狼を毛布に包んで隣へ横たえた。
ハンクの指は泥と血に汚れた指先が震えたが、その震えは恐怖ではなく、胸に宿る決意の鼓動に他ならなかった。
棺の釘のように固く娘の手を握り、己の脈動を彼女へ送り込むかのように、“まだ母のもとに送りはしない、生きろ”と無言の意思を注ぎ込んでいた。
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