二匹の獣②
ラットの視界の前で
リリーが石畳に叩きつけられた瞬間、胸を突き破ったのは獣の衝動ではなく、ただ単純な怒りだった。
「グルゥゥゥッ!」
咆哮とともに跳びかかったものの、刃のように硬い体毛を噛み切ることは叶わず、逆に黒い巨腕から横薙ぎの衝撃を浴びた。
石畳を離れた身体は外気を裂き、砕けた窓を突き破って舞台裏の通路へ叩き込まれるまで視界が何度も裏返った。
背が石床に激突した瞬間、鈍い音が通路にこだまし、肺から空気が一気に奪われる。
打ち付けられた場所は客席から死角となる狭い回廊、舞台裏と控室を繋ぐ導線だ。
壁に掛かった錆びたランタンがかろうじて橙色の光を揺らし、埃と汗の匂いが入り混じる空気が胸を焼いた。
瓦礫が背中に食い込み、血の味が口に上る。
それでも遠くで倒れ込むリリーの気配が、痛みよりも鋭く心臓を締めつけた。
膨らんだ体毛が満月の近さを告げるが、生憎の曇天では人間に戻る力を与えてくれないらしい。
雲なき満月さえあれば、弱い殻を捨て本来の人狼として立てたものを。
ラットは短く息を吐いた。
そんな時だった、鼻先をくすぐる甘い香りが漂った。
先日マリアの衣からかすかに感じた、懐かしさと胸騒ぎを同時に呼ぶ不思議な匂い
――ハンクはレインズベールの森で採取できる薬草だと言ったが、この姿では訂正する声も出せなかったのだ。
香りを辿るうち、足は無意識に暗い廊下の奥へ向かう。
マリア達、演者がいたであろう、控室の扉の向こうで、華麗なる漆黒のドレスを纏った真似人形の下に転がった薬瓶から紫がかった液体が石床を濡らしていた。
どうやら匂いの正体はこの液体らしい。
――この匂いはどこで嗅いだろうか?
鼻孔の奥で記憶が疼く。
――この匂いの記憶は過去のものか?
――それとも狼の殻に閉じ込められてから嗅いだ匂いだっただろうか……。
――そもそも、何故マリアがこんな薬を持ち歩いていたのか。
――薬というのなら、少しでもこの体のキズをいやしてくれるのだろうか。
多くの考えが渦巻くより先に、舌が勝手に動いていた。
液体を舐めた瞬間、鉄錆に蜂蜜を溶かしたような濃厚な味が口内を満たす。
疑念も恐れも、喉を焦がす熱とともに霧散した。
身体の芯から蒸気が噴き上がり、小さな狼の殻を押し広げる圧力が骨をきしませる。
骨格が悲鳴を上げ、四肢が引き裂かれるように伸びる。
だが意識ははっきりしていた、守るべき存在が、まだ外で倒れたままなのだ。
天井を突くほどの遠吠えを押し殺し、ラットは薄い扉へ爪を突き立てた。
木が裂け、控室の扉が外へ弾け飛ぶ。
雨の匂いが一気に流れ込み、視界の先には黒い獣人がリリーへ歩み寄る背中が映った。
「グォォォォン……ッ!!」
ラットは、二足で踏み込んだ。
雨粒を弾きながら踏み込んだ爪が石畳を削り、灰色の肉体は黒い巨体の背に渾身の斬撃を叩き込む。
鋼のような毛皮が裂け、黒い獣人が苦鳴を漏らした。
ゆっくりと振り返る真紅の瞳。
そこには明らかな動揺のいろが見て取れた。
そして、同時にラットは理解する、この黒い獣には、自分と同じ確かな理性があるということを。
「ひっ、人狼だッ!! 二匹いるぞ!!」
「灰色と黒色の奴だッ!! 仲間割れしているのかッ――」
警官達の声が雷鳴のように響き渡る。
雨に濡れた路地は逃げ惑う市民と銃口、そしてランタンが放つ閃光で混沌とし、ラットの鼓動はさらに早鐘のように打ち鳴らされた。
周囲の喧騒に気を取られた刹那、黒い獣が距離を詰めてきた。
巨大な黒い人狼、鋼線のような体毛と真紅の瞳を持つ怪物。その拳が振り下ろされるたび、劇場の窓ガラスが震え、石畳が悲鳴を上げる。
リリーは依然として動かない。
守らねば、その一心で、ラットは灰色の四肢をしなやかに伸ばし、捕物杖めいた爪先で地面を蹴った。
白い息とともに放った斬撃が相手の腕をかすめ、石片が飛び散る。
しかし黒い獣は揺るがず、重量を乗せた一撃で押し返してくる。
半歩退きつつ衝撃を受け止めたラットの胸で筋が軋み、痛みが四肢を駆け抜ける。
偶発的な覚醒で得た力では、この巨体に及ばないらしい。
それでも動かなければリリーは救えない。
「ギャン――ッ!!」
再度咆哮し、鋭い爪で床に深い裂け目を刻む。
黒い獣が一瞬肩を落とし、真紅の瞳に疑念の光が走ったが、次の瞬間には再び敵意が燃え上がっていた。
背後で警官隊が銃口を向けつつも後退し、遠くで危機を知らせるサイレンが鳴り始める。
市民は黙り込み、路地の空気は張りつめた。
ラットは倒れたリリーへと一歩引き寄り、灰色の耳を伏せて低く唸る。
――あとどれだけ、この姿で戦っていられるだろうか。
――少しでも気を抜いてしまえば、また小さな狼に戻ってしまいそうだ。
ラットが灰色の体を震わせ、薄い息を吐き出した。
意識が薄れゆく中、それでも爪を地面に突き立てて立とうと抗う。
その様子に、黒い獣人の瞳が静かに揺らいだ。
――これ以上は……。
黒い獣の瞳から漏れる感覚。
そこには迷い、ためらい、戸惑いが漏れ出していた。
巨大な体が小さく震え、わずかに後ずさる。
そして次の瞬間、黒い獣は荒々しく吠え、濡れた石畳を蹴って劇場の屋根へと跳躍した。
瓦が爆ぜ、雨水が霧のように宙へ散り、黒い背はさらにひと蹴りで向かいの尖塔を飛び越え、森の闇へ溶け込んでいく。
ラットも遅れまいと悲鳴を上げる体を押して、身を宙へ放った。
だが勢いは途中で途切れ、爪が屋根の端に届く寸前で失速し、全身の重量を抱えたまま劇場の煉瓦壁へ叩きつけられた。
砕けた漆喰が飛散し、血混じりの咳が喉を灼く中、灰色の身体は壁面を滑り落ちて茂みに沈んだ。
落下の衝撃と同時に、ラットの巨大な人狼の躯は急速に収縮した。
どうやら、薬液の効力が喪失したのだろう。
裂け目から灰色の体毛が飛び散り、骨と筋がきしむ音を伴って、獣のシルエットはわずかな呼吸のあいだに小柄な狼へと再構成されていく。
いつもの、小さき狼。
その小さな胴体が泥に沈み込みながら震え、短い前脚が必死に地面を探る。
小さくなった身体は絡みつく蔦を払いのけながら這い、弱々しい喘ぎを漏らしつつ身を起こした。
そして、ラットは背を走る痛みを堪え、瓦礫と折れ枝の間をよろめきながら、倒れた少女を守る輪の中心へ向けて血の跡を引きずるように歩き出したのだった。
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