二匹の獣①
背後からは怒号と悲鳴が押し寄せ、混乱の波が劇場の壁を震わせていた。
リリーは人と人の隙間をすり抜けながら細い回廊を走り、突き当たりの扉へと手を伸ばす。
掌に触れた取っ手は、冷たい金属の感触をそのまま骨へ伝えてきた。
「お願い、早く……」
リリーはそっと扉を押し開け、細く開いた隙間からホールのざわめきと雨の匂いを確かめた。
だが外へ逃げる気はない。
むしろ舞台へ戻るための通路を探さなければ、その思いが足を動かす。
ホールに身を滑り込ませると、記憶の中の黒いドレス姿が脳裏をよぎった。
入場時にすれ違った、背中まで垂れる黒髪と深い黒ドレスの女性、あれはマリアに違いない。
リリーは群衆をかわし、舞台袖へ通じる脇廊下へ足を向けた。
薄暗い通路を曲がると、控室の扉がわずかに開いている。
中を覗くと、鏡台の前に腰掛ける黒いドレス姿の女性の後ろ姿があった。
肩まで覆うレース、裾に舞台の埃がついたままの衣装、先ほどまで舞台に立っていたマリアの姿そのものだった。
「マリアさん!」
だが、リリーが声を掛けても返事はない。
緊張で喉が強張り、もう一度呼ぼうとした瞬間、通路の奥で獣の影が蠢いた。
狼の頭が壁際から覗き、真紅の瞳がぎらりと光る。
次の瞬間、獣人は低い咆哮とともに一直線に迫って来た。
――気が付かれた。
――でも、ここで私が逃げたら、マリアさんが。
咄嗟にリリーは獣の注意を引くよう、廊下の反対側へ駆け出し壁を強く叩く。
硬い音が響き、獣の顔がこちらを向いた。
距離が一気に詰まる。
リリーは窓枠に手を掛け、錆びた掛金を外して窓を押し開く。
冷たい夜気が吹き込み、雨粒が頬を打つ。
リリーは振り返りざまに獣へ短く声を上げ、自分を追わせる形で窓外へ身を躍らせた。
背後ではまだ観客が逃げ惑う足音が続く。
彼女は石畳に着地しつつ、獣が群衆へ向かわぬよう、闇の路地へ誘う構えを取った。
劇場前の広場には、領主を運んだ黒漆の四輪馬車が一台だけ取り残されていた。
御者の姿はなく、革手綱の陰でラットが低く鼻を鳴らしながら主人を待っている。
背後で窓枠が爆ぜる音が轟く。
獣人が廊下の壁ごと外へ飛び出し、瓦礫とガラス片を撒き散らしながら石畳に着地した。
大地に突き刺す咆哮が夜気を震わせ、リリーの鼓膜を揺らす。
ラットは鋭く唸り、すぐさま警戒態勢に入った。
リリーは一歩でも距離を取ろうと横手の路地へ駆けだす。
しかし獣はその動きを見逃さず、闇を裂いて跳躍すると、リリーの背後、黒塗りの馬車の幌上に叩きつけられるように降り立った。
鈍い衝撃音とともに車体が歪み、片輪が外れて石畳を転がる。
木製の幌がばらばらに割れ、馬車は一瞬で形を失った。
馬車の残骸を踏み砕きながら、獣人は真紅の瞳を細め、リリーを捕らえて離さない。
リリーは砕けた車輪の陰に身を滑り込ませ、胸を焼くような呼吸を抑える。
路地の奥から警笛が鳴り、数人の警官がランタン片手に駆けつけた。
彼らは市民を脇へ誘導しつつ、ちらりと獣を確認して距離を測る。
拳銃に触れかける者、捕物杖で広場を仕切る者、命令が飛び交い、場は混沌と化した。
リリーは瓦礫の陰で息を潜め、群衆が逃げ切るまで時間を稼がねばと歯を食いしばる。
きっと父もこの騒ぎに気づき、来てくれる、その一縷の望みが心を支えた。
そんなリリーを気遣うように、彼女の手をそっとざらついた感触が触れる。
リリーは咄嗟に自身の手の感触を確かめ、そして声を上げた。
「ラット!! あなた、生きていたのね!! ケガしていない?」
そこには、濡れた毛皮を薄く逆立てたラットがいた。
リリーの声をきいてラットが低く鼻を鳴らす。
暗がりに光る黄金の瞳が、頼れる相棒の意思を伝えてくる。
だが肩口の毛の隙間に、細い擦過傷が覗いた。
きっと、崩壊した馬車の破片が掠めたのだろう。
リリーは慌ててポケットを探る。
指が触れたのは、先ほど劇場で領主から受け取った純白のハンカチだった。
そのハンカチを持ってそっと傷口に当て、包もうとした瞬間、夜風がひゅうと吹き抜ける。
そのハンカチは指をすり抜け、闇と雨の中で翻った。
「待って!」
リリーは反射的に身を伸ばし、飛翔する布へ手を伸ばす。
その小さな動きが、濁った空気を切り裂いた。
獣人はびくりと反応し、一瞬動きを止めた。
鋭い牙の覗く大きな口が、驚いたようにわずかに開く。
雨滴が音もなく二人の間に降り注いだ。
次の瞬間、獣人は喉の奥から、地を這うような咆哮を上げた。
「グルゥゥゥァァァァン――ッ!!」
空気が震え、耳の奥を裂くようなその唸りは、周囲の喧騒を一瞬で支配した。
リリーは堪らず両耳を押さえる。
その刹那、巨体が地を蹴った。
人間離れした速度で縮められる距離。
気が付けばリリーは避ける間もなく、はじき飛ばされていた。
獣人の剛腕が軽く薙いだだけだったが、彼女の体は宙を舞い、石畳に叩きつけられる。
激痛とともに視界に火花が散った。
「あ……」
声にならない息が漏れる。
意識が遠のく中、リリーは横たわったまま薄れていく視界に自分の手が伸びるのを感じた。
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