降り立つ漆黒
客席の熱気とは裏腹に、劇場の外は冷たい雨が降りしきっていた。
その暗闇の中、ハンク・ウィルソンは劇場脇の路地に身を潜め、鋭い眼差しで周囲を警戒している。
彼は先ほどから辺りを探っていた。
もしマリアが何らかの動きを見せれば、それを見逃すまいと。
そして、もし ヴィクター・ソレイユ がこの場に現れるのなら、逃さず尻尾を掴んでやるつもりだった。
ハンクは肩口までしっかりとコートを引き上げ、雨をしのぎながらじっと劇場の裏手に視線を据えた。
人気のない裏口のあたり、物陰に誰かがいる気配がする。
わずかなランタンの光に、一瞬だけ浮かび上がった横顔、シルクハットを目深に被った男。
ヴィクター・ソレイユだ。
ハンクの目が細められ、心臓が高鳴る。
やはり来ていたか……。
しかしその瞬間だった。
劇場の屋根の上方から、何かが崩れるような音が聞こえたのだ。
ハンクがはっと顔を上げると、建物の上に巨大な影が揺れているのが見えた。
雨夜の闇に滲む異形のシルエット、常軌を逸した大きさだ。
まさか……!
ハンクは反射的に背負っていた猟銃に手をかけた。
「グルルァァァン!」
闇を震わせるような咆哮が木霊する。
思わず耳を塞ぎたくなる異様な唸り声だった。
建物の上の影が地上へ飛び降りたかのように見え、次いで劇場内から悲鳴が上がる。
ハンクの頬を雨とは別の冷たい汗が伝った。
「化け物……だと?」
彼は呆然と呟く。
視界の端で素早く動く気配があり、ハンクはそちらに目をやった。
先ほどまで物陰にいたヴィクターの姿がかき消えるように消えていたのだ。
「くそっ…!」
ハンクは舌打ちした。
だが今はそれどころではない。
――クソッ、劇場の中にはリリーがいる!!
====劇場内部====
リリーの視界に映るのは、舞台中央で役を演じ切ったマリアの背中だった。
深い一礼を終えた彼女は、緞帳が降りる前に、そっと舞台袖へと姿を消す。
緞帳は依然として上がったまま。
観客席は一斉に息を呑み、その静寂はマリアが繰り広げた圧巻の演技が生み出した完成度の証だった。
余韻は深く残り、言葉をひとつ紡ぐたびに魂を揺さぶられるような感覚に、誰もが言葉を失い、舞台に引き込まれていたのだ。
主役が消えたことで、舞台の空気は切り替わりながらも連続し、観客の意識を途切れさせることなく物語を先へと運ぶ。
仄暗い光が石壁のひび割れをなぞり、城門のようなセットが重々しく浮かび上がる。
天井から落ちる光は柔らかく、まるで月明かりを掬って投げかけたようだった。
観客たちの瞳は自然と引き寄せられ、会場には深い静寂が満ちる。
そこには確かに、マリアが舞台に残した熱と余韻が息づいていた。
あの圧倒的な演技があってこそ、舞台は生き、観客一人ひとりの胸に次なる物語への期待の火を灯していたのだ。
幽玄と緊張が同居する、まるで息を呑むような美しさが劇場に広がっていた。
リリーもハンクに頼まれたお願い事を忘れ、胸を高鳴らせながら息を呑む。
舞台の移り変わりをじっと見つめ、この先の展開を待ちわびている。
そんな時だった、不意に舞台の上方から木くずがぽたりと落ちたのだ。
小さな音が静寂を破ると、演者たちは一瞬、上を見ずにいられなかった。
「こんなの、演出にあったか?」
舞台の上で演者の誰かがぽつりとつぶやき、ざわめきが客席に広がった。
セットの上端からは、明らかに舞台装置ではない不穏な影がちらついている。
慌てた演者たちは互いに目配せをしながら、「一体何だ?」と上方を仰ぎ見た。
その瞬間、天井裏の闇からずしんと鈍い衝撃が伝わり、まるで大地が揺れたかのように劇場中に震えが走った。
静まり返った空気の中、ぽつりと落ちた物体だけが、その異常を告げる。
照明は一瞬だけ煌めき、微細な埃が舞い上がりながら舞台の周囲に渦を巻いた。
影は床板を軋ませつつゆっくりと横たわり、その輪郭は漆黒の闇を纏ってなお、人知を超えた威容を漂わせている。
観客も演者も一斉に息を飲み、戸惑いが波紋のように広がった。
そこに落ちてきたのは、狼の頭部を戴く二メートルを優に超える獣人だった。
漆黒の短毛は身体を覆い、床板に叩きつけられた衝撃で、わずかに舞台の木目が浮かび上がる。
四肢の筋肉は黒曜石のように硬質で、刃物のように研ぎ澄まされた鋭い爪先が床をえぐっていた。
その姿を瞳に写し、リリーの心臓は凍りついた。
――もしかして……。あれが……霧の獣!?
その異様な光景に、客席と舞台袖からは悲鳴が巻き起こり、演者たちは叫び声を上げて逃げ惑い始めた。
布製の衣装が擦れる音、慌てた足音が木製の舞台を震わせる。
リリーは立ち尽くしたまま、その眩い凶暴さに目を奪われた。
しかし、すぐにマリアのことが頭をよぎる。
――マリアさん……大丈夫? 逃げ遅れてない?
恐怖と焦りに胸を締めつけられたまま、リリーは群衆の裂け目を縫うようにして通路へ飛び込んだ。
舞台袖に姿を消してから間もないマリアのことが、頭から離れない。
獣のすぐ近くに彼女がいるかもしれない、その不安が、リリーの足を駆り立てた。
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