霧雨の追悼公演②
リリーが劇場の中へ入ると、開演前のあわただしさが、伝わってきた。
ふと、リリーは振り返る。
先ほどまで、凛とした態度で、自身を勇めていた領主の姿は霧が晴れるように姿を消していた。
――いったいどこへ消えてしまったの?
――今はそんなことよりも、マリアさんを探さないと。
劇場の内部、開演前の慌ただしさの中、廊下の奥にある控え室からドレスの裾を引きずった女性の後ろ姿が一瞬見えた。
――あれは……。マリアさん?
リリーは声を掛けようとして、思いとどまった。
昨夜の密会を思い出し、どう接していいか分からなかったのだ。
背中越しに見える女性、マリアらしき人影は、鏡台に向かって微動だにせず座っている。
きっと集中して気持ちを高めているのだろう。
リリーは邪魔してはいけないと思い、静かに客席への通路へ歩を進めた。
小さな劇場の中は、古い木の香りと埃の匂いが混じっていた。
天井から下がるシャンデリアには幾つもの蝋燭が灯り、薄明るい光が客席を照らしている。
こぢんまりとした客席には既に半分ほど人が座っており、開演を心待ちにしたざわめきが漂っていた。
リリーは案内された席に腰掛けた。
だが柔らかなクッションの感触にも関わらず、背筋はぎこちなく強張ったままだった。
胸の内に去来するのは、あの夕暮れ時に目撃してしまった光景だった。
人目を避けるように佇む二人、ヴィクターがマリアへ差し出した小瓶の琥珀色の液体が、街灯の光を受けてほのかに輝いたあの瞬間。
思い過しかもしれない。
ヴィクターは怪しい存在、だが、まだ何かをしたという確証を得ていない以上、リリーはマリアの公演が無事に終わることを観覧席で祈る事しかできないのだ。
「大丈夫……だよね」
リリーは自分に言い聞かせるように小さく呟いた。
演劇が始まれば、きっとマリアはいつもの優しい笑顔を見せてくれる。
あの穏やかなマリアが、悪事にかかわるはずはない……。
リリーは震える手を握りしめ、必死に心のざわつきを抑えようとした。
やがて場内が暗転し、ざわめきが潮を引くように静まっていく。
シャンデリアの灯りが落とされ、厚手の緞帳が音もなく左右に開いていくと、舞台に一輪の灯が当てられた。
リリーは息を呑んだ。
今この瞬間だけは余計な不安を忘れ、目の前の舞台に集中しよう、そう自分に言い聞かせる。
舞台上には石造りの街角を模した簡素なセット。
そして一人の若い女性が、静かに佇んでいた。
暗いドレスに身を包んだその女性は、降りしきる雨を表現するかのように細かな水滴が照明に煌めく中、伏し目がちに何かを待っている。
マリアだった。
リリーははっと目を見開く。
舞台袖から登場したマリアは、まるで別人のように張り詰めた空気を纏っていた。
いつもは控えめな彼女が、今は悲劇のヒロインとしてそこにいる。
「……どうして私を残して逝ってしまったの?」
沈黙を破ったのは、マリアのか細い声だった。
客席にも届くよう、それでいて儚く震える声。
彼女は一歩、また一歩と舞台中央に歩み出る。
その瞳には今にも涙が溢れそうな光が宿り、唇は悲痛な思いを堪えるかのように震えている。
「約束……したじゃない……。あの雨の夜に……」
震えるセリフが劇場内に響くたび、リリーの胸は締め付けられた。
これは劇の台詞だと分かっていても、そこに込められた切実な感情がまっすぐ心に届いてくる。
マリアの演じる女性は、降りしきる雨の中で最愛の人を失った娘。
その孤独と哀しみが、ひしひしと伝わってくるようだった。
リリーは息をするのも忘れて舞台に見入った。
マリアの演技は、その表現に非の打ちどころがないほど完璧で、声の震え、仕草の一つひとつから迸る熱情が伝わってくる。
いったいどこからあの激情が湧き上がるのか、リリーは目を離せずにいた。
「どうして……。どうしてなの!」
その叫びは劇中のセリフであるはずなのに、リリーにはマリア自身の心の叫びのようにも聞こえた。
まるで、彼女自身が誰かに裏切られ、孤独と怒りに引き裂かれているかのように——。
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