霧雨の追悼公演①
冷たい小雨に煙る古びた劇場の裏手で、リリー・ウィルソンは肩を竦めながら身を潜めていた。
父ハンクは劇場へと延びる街道の半ばに立ち、雨と泥濘を背に、ラットを抱きしめた彼女の小さな身体を守るように視界を巡らせている。
――もしマリアに何か怪しい動きを見せたら、すぐ知らせてほしい。
ハンクの低い声が耳元で反響して、リリーは小さく頷く。
彼女の掌には、先日マリアから受け取った真紅のハンカチが握られ、雨水に濡れてほのかに香る木屑の匂いが心を落ち着かせる。
突如決まったジェラルド追悼公演の意図が掴めず、戸惑いと不安に胸が締めつけられた。
それでもリリーは覚悟を決め、自ら劇場へと足を踏み出す。
そんな緊張を断ち切るように、遠くから車輪の軋む音がゆっくりと近づいてきた。
きしむ鉄の爪が石畳を引きずる度に、リリーは息を詰める。
やがて、馬車の車輪音を最後に止めるかのように黒漆の馬車が劇場前にひそやかに到着した。
扉が開くと、真紅の外套を翻す細身の存在が姿を現す。
その華奢な肢体はあたかも衣服に抱かれているかのように見え、端正な横顔はどこか儚げであどけない。
濡れた髪を耳の後ろにさらいながら鋼色の瞳を細めると、そこに宿る冷静さと幼さが混ざり合い、不思議な静寂を劇場前に生み出した。
領主は少年らしい細身の肢体を揺らしつつ視線をリリーへ送ると、わずかに口元を緩め、相反するほど幼い微笑を浮かべて問いかけた。
「やぁ、キミはジェラルドの屋敷に居たね。確か……。猟師の娘の……」
「……領主様、こんにちは、リリー・ウィルソンです」
リリーは小さく会釈し、声を潜めた。
領主は一瞬、リリーの目線から視線を外し、胸元で大人しく身を丸めるラットへと目を移す。
その、小さな獣を領主が視線に移した瞬間、すぐさま領主は衣服のポケットに忍ばせていた純白のハンカチで、自身の口元を覆った。
「ところで、君。その子も劇場の中まで連れて行くつもりかい?」
「はい……。でも、一人にしておけなくて」
「クゥーン」
ラットが小さく鳴き、全身をぶるりと震わせて水気を払う。毛先の雫がはじけ、飛沫が領主の指先へ散った。
「っ、すみません……!」
「……結構」
短い応答ののち、抑えた咳が喉の奥に落ちた。
「劇場は慌ただしい。犬が一声でも吠えれば迷惑だ。それに私は獣の匂いが苦手でね。近づくと咳が出る」
リリーは肩をすくめ、ラットを抱き直した。
「この子ったら……本当に申し訳ありません。もし汚してしまったなら、私が洗って——」
「いや、いいんだ」
領主は雨を払うように手首を返し、口元に当てていた純白のハンカチをそのままリリーへ差し出した。
「これは君にあげよう。これで君の忠犬の体を拭いてやるといい。それに、獣の臭いが染みついた布を持つのは御免だ」
リリーは慌てて首を振った。
「そ、そんな……いただくなんていけません。それに、ハンカチなら持っています」
そう言って、りりーは胸元から真紅のハンカチを取り出した。 昨日マリアから受け取ったハンカチが雨に濡れた指先で広がると、わずかに薔薇の香りが立った。
領主の目が細くなり、意外の色が一瞬だけ走る。
「……その布からは薔薇の香りが微かにするな。なおさら、獣の体臭で汚すには惜しい。——ジェラルドはたしか薔薇が好きだったか」
リリーは短く息をのみ、赤をそっと畳んで胸元へ戻した。そのうえで、領主の手の純白のハンカチを申し訳なさそうに受け取ると、ラットの耳と首筋、前脚の付け根をやさしく拭った。
水筋が切れ、ラットが鼻先を寄せて短く鼻を鳴らす。
「御者。この追悼公演は我らの顔でもある。彼女の相棒を万全に見守れ。小さな騒ぎも、この夜の幕開けを曇らせるな」
そしてリリーへ向き直る。
「リリー。君の相棒は、ここで御者に預けるといい」
御者が一歩進み、無言で手を差し出した。
リリーは白布を折りたたんで懐へしまい、ラットを抱き上げ、震える腕でそっと預けた。
少し抵抗したラットだったが、やがて状況を悟ったのか、静かな手つきに身を委ねた。
去っていく背を見送るリリーの胸に、安堵と寂しさが同時に落ちる。
雨に混じって薔薇の香りがかすかに立ちのぼり、その温もりを手元に残したまま、彼女はそっと劇場の扉へ視線を移した。
そして、小さく息をつき、父から受けたマリアの監視という指名を胸に、劇場の扉をそっと押したのだった。
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