寝耳に水
倉庫裏での密会を目撃した夜更け、ハンクたちは雨煙る街路を駆け抜け、警察署の灯りに滑り込んだ。
執務室の扉を開けた瞬間、紙束をかきわけるペン先の音が止む。
「戻ったか」
署の執務室では、主任刑事ジョナサンが書類の山を前に眉間に皺を寄せていた。
ハンクがドアを叩いて入ると、ジョナサンは顔を上げる
「――随分と遅かったな」
ハンクは黙ってコートを脱ぎ、濡れた帽子を棚に置く。
リリーとラットを背後にかばいながら、一拍置いて答えた。
「足の赴くままに動いた結果だ。刑事殿の就寝時間を気にする余裕はなかった」
「就寝できるほど、穏やかな状況ならどれだけ嬉しいか」
ジョナサンは苦い笑みだけで応え、椅子の背にもたれた。
机上のランプが二人の間に長い影を落とす。
「マリア・クラインの稽古場を“下見”していたそうだな。しかも私の連絡より先に」
「下見だって――!!」
ハンクは低く言った。
「みてきたんだろ? マリアの演劇を。部下からそう聞いている」
ハンクは、自分たちが巧妙に監視されていたことに背筋を寒くした。
劇団側が目通しを送り込んだのか、あるいは屋敷の段階から尾行がついていたのか。
いずれにせよ、動きが始まる前からすべての情報が掌握されていたのだと悟った。
「あぁ、リリーがマリアの芝居を見たいと言い出してな。丁度いい息抜きになると思ってな、見始めたんだが、戻ってくるのが遅くなってしまったようだ」
ジョナサンはペンを回しながら視線を移す。
「倉庫の稽古場、だろう? まさに君の嗅覚は私の仕事を先取りしたらしい」
ハンクの眉がわずかに動いた。「どういう意味だ? さっきから何を言っている?」
ジョナサンは未開封の公文書をトンと指先で叩く。
「今日の午後遅く、マリアの劇団《雨街座》から正式に届いた。『ジェラルド・レインズウィック追悼公演』の申し出だ。日取りは――明晩」
「なにっ!! 追悼公演だって!! 早過ぎる」
ハンクは思わず身を乗り出した。
「遺体が土にも帰っていない。街がまだざわついている最中だぞ」
「私も驚いたさ。だが領主殿は“市民の不安を鎮める弔いの灯”だと賛同されたのだ。我々がどうこう言えんのだ」
リリーが小さく息を呑む。
「領主様までいらっしゃるんですか?」
ジョナサンは頷き、ハンクへ書簡を差し出した。
「キミにはぜひ、裏方の護衛兼監察をお願いしたい」
「俺が劇場警備に?」
「正直に言おう。あの屋敷で見つかった爪痕といい、街に流れる“獣”の噂といい――霧の獣が何処に潜んでいるかわからんのだ。キミほど獣に精通した人間はこの町にはいない。領主の身辺を守りつつ、異変があれば即座に対処してほしい」
ハンクは深く息を吐く。
倉庫裏でマリアが見せた紫色の小瓶、ヴィクターの不敵な笑みが脳裏でつながる。
「あぁ……わかった」
ジョナサンの瞳がわずかに柔らいだ。
「助かる。追悼の儀式が本当に“灯”となるか、それとも更なる闇を招くかは――我々次第だ」
雨音が窓を叩いている。ハンクはその音に耳を澄ませ、静かに拳を握った。
「あぁ、明晩、霧の獣の正体を暴いて見せるさ。」
ハンクの声音には揺るぎない確信が宿っていた。長年の猟師として培った勘が、事件の真相を掴んでいるようだった。
「期待しているぞ――いや、共にやろう。私も劇場の客席で領主の隣に座りながら、目だけは捜査官として光らせておくからな」
「ジョナサンさん、ちょっと嬉しそう」
「言ってやるな、リリー、こんな辺境の地だ、演劇が物珍しいんだろうよ……」
執務室のランプが揺れ、二人の影が重なり合って長く伸びた。
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