暗闇に揺れるかがり火
「ヴィクター……さん?」
思わず胸の内でその名を呟く。
間違いない、あの商人だ。
彼は確かに今朝までは街に留まっていると言っていたが、まさかこんな場所でマリアと密会しているとは。
二人は小声で何か言葉を交わしているようだった。
ハンクたちからは距離があり内容までは聞き取れない。
だが、マリアの表情はどこか緊張した面持ちで、男がマリアに小瓶のようなものを差し出している…?
闇の中で確かめづらかったが、ランタンの僅かな明かりがガラスの反射を捉えた気がした。
そのとき、ラットが抑えた唸り声を漏らした。
ハンクは慌てて身を屈め、ラットの口元に手を当てる。
これ以上気取られてはまずい。
リリーも息を潜め、二人の影から目を離せないでいた。
男――ヴィクターらしき人物は周囲を一瞥すると、素早く踵を返した。
長いコートの裾を翻し、闇に紛れて足早に去っていく。
マリアはしばらくその背中を見送っていたが、やがて小さく息を吐き、倉庫の反対側へと姿を消した。
後には静寂と雨音だけが残される。
ハンクたちは物陰に身を潜めたまま、しばらく動けなかった。
ラットが静かに鼻先をヒクヒクと動かし、地面の匂いを嗅いでいる。
先ほど男の足元に漂っていたのだろう、不自然な薬品の臭いと獣の臭気が、雨に洗われて薄れつつも残滓を留めていた。
「お父さん……。今の……」
沈黙を破ったのはリリーだった。
小さな声で囁く。
「マリアさんと、一緒にいたのって……」
ハンクは頷き返した。
「ああ、ヴィクターで間違いないだろう」
確証はないものの、独特な男の風貌は間違いなくあの商人のものだった。
リリーは戸惑いに声を震わせた。
「どうして……。マリアさんが彼と……?」
ハンクも答えに窮し、唇を噛んだ。
「わからん。だが……。何か良からぬことに関わっているのかもしれん」
低い声が自然と唸るようになる。
目の前の光景は、二人がただの知り合いというには不自然すぎた。あの小瓶らしき物のやり取り――嫌な胸騒ぎがする。
「マリアさん……」
リリーは困惑の色を浮かべたまま、じっと暗がりを見つめていた。
信じたくない、という思いがその瞳に宿っている。
ハンクはそんな娘の肩に手を置いた。
「とにかく、ここを離れよう。見つかったら厄介だ」
小声で促し、ラットの首輪にそっと手をかける。
ラットも抵抗なく後退し、三人と一匹は足音を忍ばせてその場を離れた。
幸い、物音に気づいた様子はない。
ハンクたちは街灯の下まで戻ってきて、ようやく安堵の息を吐いた。
霧雨はなおも降り続いている。
ランタンに照らされたリリーの顔は強張っていた。
「お父さん……。私……。どうすれば……」
震える声を飲み込むように、彼女は唇を噛んだ。
ハンクはゆっくりと娘の頭に手を置く。
「何もしなくていい。今はまだ、何も決まったわけじゃない。確かにマリアとヴィクターが会っていた。異国の薬をヴィクターからもらっていただけかもしれない。ただそれだけだ。迂闊に騒ぐわけにはいかないさ」
静かな、しかし力強い口調だった。
リリーは潤んだ瞳で父を見上げた。
「……うん」か細い返事をすると、震えを堪えるようにラットを抱きしめる。
ラットはきゅ、と小さく鳴き、リリーの腕の中でじっと大人しくしていた。
ハンクは石畳に広がる水たまりを見下ろした。
そこに映る自分の顔が、雨の波紋で歪む。
「リリー。今見たことは、ジョナサンにもまだ黙っていよう」
低く提案すると、リリーは驚いたように目を瞬かせた。
「でも…」口ごもる娘に、ハンクは首を横に振った。
「何も掴めていない現状じゃ、混乱を招くだけだ。それに……」
そこで言葉を濁す。マリアへの疑念が浮かびつつも、確信は持てていない。
自分たちが見たことは一体何だったのか。
マリアが事件に関与しているのか、それともヴィクターに利用されているだけなのか――現時点では推測に過ぎない。
迂闊に彼女を疑えば、リリーの心を深く傷つけることにもなりかねなかった。
「……わかった」
リリーは消え入りそうな声で返事を返した。
ハンクはコートの襟を正し、「行こう」とだけ告げて歩き出す。
リリーもぎこちなく頷き、ラットとともにその後に続いた。
分厚い雲に覆われた空から、ぽつりぽつりと粒の大きな雨が落ちてきた。
街道を照らすランタンの灯火が揺れ、長い影が石畳に尾を引く。
ハンクとリリーが後にした細い道の奥、静まり返った古い倉庫の一角に、マリアがぽつりと佇んでいた。
皆が去ったあとの薄闇の中、彼女は一人、小さなランプを手に持っている。
揺れる灯火がマリアの横顔を照らし出した。
先ほどまで浮かべていた穏やかな笑みは影を潜め、代わりに悔恨と憎悪が入り混じった複雑な表情が浮かんでいる。
マリアは震える指先で袖に隠した小瓶を握りしめた。
瓶越しに感じる冷たい薬液の感触。
それは雨の中でなお不気味に揺らめいている。
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