稽古場にて②
マリアがほっとした顔でリリーたちの方を見る。
「観てくださってありがとう、リリーさん。ハンクさんも」
駆け寄ってくるマリアに、リリーは笑顔で応じた。
「私……。今日初めてお芝居を見ました。とっても素敵で……。胸がいっぱいです」
まだ少し涙の痕が残る目でそう告げると、マリアは柔らかく微笑んだ。
「そう言っていただけると、頑張ったかいがあります」
「あの……。私、思ってしまったんです。もしお母さんが生きていたら、こんな風に一緒にお芝居を観たりできたのかなって」
ぽつりと漏らした言葉に、自分でも驚く。
けれどマリアは驚いたように目を瞬かせたあと、そっとリリーの手を握った。
「……そうですね。私も母に見せてあげたかったな」
優しい声が静かに響く。
「えっ?」
引っ掛かりのある言葉にリリーは戸惑うが、そんなことをマリアが気にする様子はない。
「お母様はきっと、リリーさんが楽しく過ごしているのを喜んでらっしゃると思うわ。だから……、もしよければ、これからも時々いらして。リリーさんなら大歓迎よ」
その申し出に、リリーの瞳が大きく見開かれた。
「マリアさん……!」
喜びと戸惑いの入り混じった声をあげる。
マリアは微笑んだままゆっくりと手を離した。
「……変なことを言って、ごめんなさい。ただ、あなたの笑顔を見ていたら…」
どこか寂しげにそう呟く。リリーは首を振った。
「変なんかじゃありません。私……、嬉しいです!」
頬に残る涙を拭い、精一杯の笑顔を返す。
その様子を、ハンクは少し離れた場所から静かに見守っていた。
娘が心から喜び、誰かと心を通わせている光景は彼にとって何にも代えがたいものだった。
まして相手があのマリア・クラインだ。
初対面のとき抱いた得体の知れない印象は、今や不思議と影を潜めていた。
舞台の上で見せた真摯な姿と、リリーに寄り添う優しさ、それらは嘘や偽りには思えない。
ハンクは自分の胸に芽生え始めた信頼と警戒がないまぜになった感情に戸惑いつつ、二人のやりとりに目を細めていた。
片付けを終えた劇団員たちがそれぞれ帰り支度を始める。
辺りはいつの間にか夕闇に包まれ、倉庫の窓から覗く空も深い群青色に染まっていた。
「それじゃあ、私たちもそろそろ失礼しましょうか」
ハンクが声をかけると、リリーは名残惜しそうにしながらも「はい」と頷いた。
「皆さん、本当にありがとうございました」とハンクが一座に礼を述べると、口々に「こちらこそ」「またいらしてくださいね」と温かな声が返ってきた。
マリアも微笑んで見送ってくれる。
「気をつけてお帰りください」
小さく頭を下げる彼女に見送られ、ハンクたちは倉庫の外へと足を踏み出した。
外はすっかり暗くなり、人気もまばらだ。
遠くで灯る街灯が雨に滲んで揺らめいている。
霧雨は相変わらず降り続き、石畳に無数の水たまりを作っていた。
リリーは足元を見ながら「滑らないようにしないと…」と呟く。
ハンクは頷き、ラットに目配せした。
「ラット、ちゃんと側にいろよ」
ラットは短く鳴き返し、リリーの足元に寄り添った。
そのときだった。ラットが突然、鋭く鼻をひくつかせた。
耳を伏せ、じっと前方の暗がりに視線を向けている。
ハンクもつられて目を凝らした。
「どうした?」声を潜めて尋ねるが、ラットは答えるように低く喉を鳴らしただけだった。
リリーも不思議そうに辺りを見回す。
「何かいるの?」
暗がりに順応した目が、徐々に倉庫の脇へ延びる細い路地を捉える。
そこは街灯の光も届かない影の領域だった。
次の瞬間、リリーは息を呑んだ。
路地の奥、木箱が積まれた陰から、人影が二つ現れたのだ。
ひとつは、女性――、マリアだった。
先ほど中で別れたはずの彼女が、なぜこんな所に?
リリーは思わず口に手を当てる。
もうひとつの人影は、マリアより頭ひとつ分は大きい長身の男だ。
黒い外套を纏い、シルクハットを目深に被っている。
その姿にリリーは見覚えがあった。
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