稽古場にて①
街外れに佇む古びた倉庫に入ると、かすかな湿気の匂いと木材の埃が鼻をくすぐった。
薄暗い室内にはいくつかランタンが灯され、即席の小さな舞台が組まれている。
屋根を伝う雨だれの音が静かに響き、稽古場にはひんやりとした空気が漂っていた。
マリアの劇団仲間らしき男女が数人、既に舞台の周囲で準備を進めていた。
彼らはマリアに連れられて来た客人――ハンクとリリーを見ると、一瞬驚いた様子を見せたが、すぐに温かな表情を向けて迎え入れてくれた。
「突然お邪魔してすみません…」
ハンクが帽子を取って恐縮すると、「かまいませんよ!マリアさんのお知り合いなら大歓迎です」と快活な声が返ってくる。
リリーも緊張しつつぺこりと頭を下げ、ラットはハンクの足元で大人しく座った。
やがて簡単な挨拶の後、稽古が始まった。
ハンクとリリーは壁際の椅子に腰掛け、静かに見守る。
マリアは舞台上に立つと、一転して凜とした表情を見せた。
普段の彼女は控えめで感情を表に出さない印象だったが、このときばかりは別人のようだ。
共演者と視線を交わした瞬間、マリアの中に役の魂が宿ったかのようだった。
舞台は薄明かりに照らされ、雨音を背景に物語が幕を開ける。
マリアが演じるのは、母の死の陰に潜む謀略を背負い、孤高の王座に挑む女王の役のようだった。
彼女はランタンの灯りを頼りに、冷たい雨の夜に佇む一人の女性を演じ始める。
しとどに濡れた道で、帰らぬ母の死に悲しみ――その切々たる想いが、静かな台詞と所作からひしひしと伝わってきた。
マリアの声は震え、今にも泣き崩れそうなほど哀切に満ちている。
ハンクは不意に喉の奥が詰まる思いだった。
彼女がここまで豊かな表現をできるとは想像もしていなかったのだ。
リリーは舞台に釘付けになっていた。
大きな瞳を潤ませ、息をするのも忘れるほど見入っている。
やがてマリア演じる娘が天を仰ぎ、静かに独白するシーンに差しかかった。
「――あなたの温もりを、まだ覚えているのに。どうか、どうかもう一度だけ、あなたの腕に抱かれた記憶の中へ私を戻してください…」
震える声が倉庫内に染み渡る。
その瞬間、リリーの中で何かが弾けた。
胸の奥から熱いものがこみ上げ、気づけば頬を涙が伝っていた。
愛する者を喪失した悲しみ――それは幼い日に母を亡くした自分自身の感情と重なってしまったのだ。
リリーの視界には、母が雨の森に消えていったあの日の幻影がちらついていた。
「お母さん…」
小さくそう呟いた声はかき消され、誰の耳にも届かなかったが、傍らのラットだけは不安そうに彼女を見上げた。
ハンクは娘の肩が震えているのに気づき、そっと手を添えた。
「リリー…大丈夫か?」
リリーはハッとして袖で涙を拭い、「ごめんなさい…」とかすれた声で答えた。
ハンクは首を横に振り、小さな声で「無理するな」と告げる。
ラットも心配そうに鼻先を鳴らした。
リリーは震える指でラットの頭を撫で、どうにか笑みを作ろうとした。
舞台上では、マリアが最後の台詞を紡いでいた。
雨に濡れたマリアの演じる娘は、それでもなお母への思いを込めた短い独白を静かに終える。
しんと静まり返った倉庫に、マリアが深く頭を下げる姿が残った。
共演者も息を詰めていたが、やがて「今のシーンはとても良かった」と声が上がり、張り詰めた空気がほどける。
拍手こそ起きなかったものの、皆が互いに頷き合うのが見えた。
どうやらこの物語の佳境の場面だったらしい。
短い休憩が告げられ、マリアが舞台から降りてきた。
彼女はふとこちらに目を向け、リリーの目元が赤いことに気づいたようだった。
「リリーさん……?」
マリアは驚いて駆け寄ると、リリーははっとして立ち上がった。
「す、すみません……!」
堰を切ったように涙を流してしまったことが恥ずかしく、顔を伏せる。
「お芝居中に……こんな……」
震える声で謝るリリーに、マリアはそっと赤いハンカチを差し出した。隅にはバラの刺繍。
花弁の輪郭だけ金糸が縁取り、舞台の光を拾って炎の縁のように揺れている。
「ありがとうございます……」
リリーはそれを受け取り、潤んだ目を押さえた。
マリアは優しく微笑み、
「気持ちが動いてくれたなら、とても嬉しいわ。でも無理はしないで」と静かな声をかけた。
その慈愛に満ちた響きに、リリーの胸はじんと温かくなる。
「ごめんなさい……。素敵だったのに、私……」
リリーが言葉を継げずにいると、ハンクが隣から助け船を出した。
「いや、本当に見事だった。正直、圧倒されたよ」
そう言ってマリアに頷いてみせる。
マリアは照れくさそうに首を振った。
「ありがとうございます。でも、私……演じている間、夢中になってしまって……お恥ずかしい限りです」
共演者の青年も笑いながら近づいてきて、「今の君はすごく良かったよ、マリア」と肩を叩いた。
マリアは「もう、やめてください」と頬を紅潮させる。
その和やかな様子に、リリーも次第に落ち着きを取り戻していった。
やがて休憩が終わり、稽古が再開された。
ハンクは倉庫の壁に寄りかかりつつ、役者たちの熱のこもったやり取りを最後まで見届けた。
リリーはラットを抱きかかえるようにして座り、先ほどよりは落ち着いた表情で舞台を見つめている。
物語は悲しみを孕みながらもどこか希望を残して幕を下ろした。
全員が本日の稽古を終え、安堵の笑みを交わし合う。
「今日はここまでにしましょう」とまとめ座長らしき人が声を上げ、一同は拍手で締めくくった。
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