束の間の休息
ラットは尻尾をゆったりと揺らし、雨の匂いを含んだ空気を盛んに嗅いでいる。
2人と1匹は警察署を後にし、石畳の広場へと足を踏み入れた。
普段は市民で賑わう広場も、天気のせいか人影はまばらだ。
傘を差す数人が足早に通り過ぎていく。
ふと、ラットがピタリと足を止めた。
鼻先を上げ、何かを探るようにひくつかせている。
「どうしたの、ラット?」
リリーが不思議そうに問いかけると、ラットは小刻みに尾を振りながら広場の一角へと歩き出した。
ハンクとリリーも顔を見合わせ、後を追う。
ラットが向かった先には、小さな屋台がぽつんと出ていた。
編み籠に焼きたてのパンを載せたその屋台の前で、見覚えのある黒髪の女性が店主と何やら言葉を交わしている。
「マリアさん……!」
リリーがぱっと表情を明るくし、駆け寄った。
雨露に濡れないよう深めに被ったフードの下から、マリア・クラインが驚いたように振り向く。
「まあ、リリーさん」
彼女は一瞬目を丸くしたが、すぐに柔らかな微笑みを浮かべた。
「お会いできるとは思いませんでした」
その傍らで、ラットが嬉しそうに鼻を鳴らす。
今朝マリアからパンをもらったことを覚えているのだろう。
「ふふ、ラットもこんにちは」
マリアはそっとかがみ込み、籠から一つパンを取り出すとラットの鼻先へ差し出した。
「また貰ってしまっては悪いよ」
ハンクが恐縮して声をかけるが、マリアは首を横に振った。
「いいえ、たくさん買ってしまったものですから。よかったらどうぞ」
リリーはペコリと頭を下げ、「ありがとうございます!」と弾んだ声をあげた。
ラットは早速それにかぶりつき、嬉しそうに尻尾を振っている。
しかし次の瞬間、ラットの動きがふと止まった。
まだ半分ほど残ったパンを咥えたまま、くんくんと空気を嗅ぎ始めたのだ。
丸い瞳がマリアを見上げ、首を傾げている。
ハンクも異変に気づき、眉を寄せた。
「ラット?」
リリーが心配そうに様子を伺う。
ラットはパンを名残惜しそうに飲み込むと、マリアのスカートの裾辺りに鼻を近づけて再び匂いを嗅いだ。
「…あら、ごめんなさいね」
マリアがはっとして身を引き、「少し薬の匂いがきつかったかしら」と申し訳なさげに微笑んだ。
「薬…ですか?」
リリーが首をかしげる。
マリアは籠を抱え直しながら頷いた。
「ええ、流行り病の対策に薬をいつも身につけているんです。この街は雨が多いでしょう?体を冷やさぬようにと屋敷の医師から処方されまして」
確かに、マリアの立つ場所にはかすかに薬草のような匂いが漂っていた。
ハンクはラットの頭を軽く撫でた
「なるほどな。ラットが驚かせてしまってすまない。コイツは薬草の臭いに敏感でね。きっといつも森で採取する薬草の臭いが気になったのだろう」
ハンクの言葉に、マリアはかぶりを振った。
「いいえ、こちらこそびっくりさせてしまったわ。ごめんなさいね、キミ、優秀なのね」
マリアはラットへ優しく声をかける。
ラットは小さく鳴いて首を振るようなしぐさを見せ、一同は思わず笑みを交わした。
ぽつりぽつりと、空から新たな雨粒が落ち始めるとマリアはフードに手を当て、「そろそろ行かないと」と呟いた。
その声にリリーが「あ…」と残念そうに声を上げる。
「もうお帰りですか?」
尋ねるリリーに、マリアは小さく微笑んだ。
「ええ、差し入れを持っていきたくって。この後は……少し自分の時間を取っているんです」
言葉を濁しつつ、彼女は視線を落とす。
その横顔を見て、リリーは口元に手を当てた。
「差し入れってことは、お屋敷に戻るんじゃないんですよね。何処へ行かれるんですか?」
「私、趣味で演劇をやっているんです。稽古場へこれから向かうんです」
「――演劇!?」
リリーの瞳がわずかに驚きに見開かれる。
「週に一度、お屋敷のお仕事が休みの日に、小さな劇の稽古に参加していて……。まあ、素人の遊びみたいなものですけれど」
マリアは少し恥ずかしそうに笑うと、リリーは目を輝かせて身を乗り出した。
「素敵です!どんな、お芝居なんですか?」
マリアが戸惑いながら口を開きかけた時、ハンクがやや咳払いをした。
「リリー、急に詰めすぎるな」
娘の興奮ぶりに苦笑しつつ諫める。
だがマリアは「ふふ、大丈夫です」とリリーに向き直った。
「今度、母の仇を討つ王女の復讐悲劇をお芝居にして上演する予定で……。今日はそのお稽古なの。仲間内だけの小さな集まりなのですけど」
するとリリーは羨望の眼差しを向けた。
「お稽古、ぜひ見てみたいです…!」
思わず漏らした彼女の呟きに、リリーは、はっとして口を手で覆う。
「あ…すみません、急に。でも……」
表情を曇らせたリリーは、その瞳に一瞬遠い憧れを宿らせた。
「私、お芝居って見たことがなくて……。森の外の世界のお話に憧れがあって……」
ハンクは娘の横顔を見つめ、小さく息をついた。
リリーが普段胸に抱えている閉塞感を、垣間見た気がしたからだ。
マリアは少し考え込む素振りを見せたが、やがて意を決したように微笑んだ。
「もしご迷惑でなければ……。いらっしゃいますか? 今から皆で集まるところなんです。この近くの倉庫を借りて稽古をしているんですけれど」
誘うようなその言葉に、リリーの顔がぱっと明るくなった。
「いいんですか?」
しかしすぐにハンクの様子を伺って表情を引き締める。
「お父さん…」
ハンクは腕を組んだまま、しばし黙り込んだ。
捜査が行き詰まり気味とはいえ、事件が解決していない中で寄り道をするのは気が引ける。
だが、リリーの心からの願いにも見える瞳に押され、ハンクは観念したように溜息をついた。
「……短い時間だけだぞ、リリー」
そう告げると、リリーは花が咲くように笑った。
「ありがとう、お父さん!」
横でラットも尻尾を勢いよく振っている。
それを見たハンクは、苦笑交じりに肩をすくめた。
マリアは安堵したように微笑み、「では、ご一緒しましょうか」と先導する。
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