表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

28/53

束の間の休息

ラットは尻尾をゆったりと揺らし、雨の匂いを含んだ空気を盛んに嗅いでいる。  

2人と1匹は警察署を後にし、石畳の広場へと足を踏み入れた。

普段は市民で賑わう広場も、天気のせいか人影はまばらだ。

傘を差す数人が足早に通り過ぎていく。

ふと、ラットがピタリと足を止めた。

鼻先を上げ、何かを探るようにひくつかせている。


「どうしたの、ラット?」

リリーが不思議そうに問いかけると、ラットは小刻みに尾を振りながら広場の一角へと歩き出した。

ハンクとリリーも顔を見合わせ、後を追う。  

ラットが向かった先には、小さな屋台がぽつんと出ていた。

編み籠に焼きたてのパンを載せたその屋台の前で、見覚えのある黒髪の女性が店主と何やら言葉を交わしている。


「マリアさん……!」

リリーがぱっと表情を明るくし、駆け寄った。


雨露に濡れないよう深めに被ったフードの下から、マリア・クラインが驚いたように振り向く。

「まあ、リリーさん」

彼女は一瞬目を丸くしたが、すぐに柔らかな微笑みを浮かべた。


「お会いできるとは思いませんでした」

その傍らで、ラットが嬉しそうに鼻を鳴らす。

今朝マリアからパンをもらったことを覚えているのだろう。


「ふふ、ラットもこんにちは」

マリアはそっとかがみ込み、籠から一つパンを取り出すとラットの鼻先へ差し出した。


「また貰ってしまっては悪いよ」

ハンクが恐縮して声をかけるが、マリアは首を横に振った。


「いいえ、たくさん買ってしまったものですから。よかったらどうぞ」

リリーはペコリと頭を下げ、「ありがとうございます!」と弾んだ声をあげた。


ラットは早速それにかぶりつき、嬉しそうに尻尾を振っている。  

しかし次の瞬間、ラットの動きがふと止まった。

まだ半分ほど残ったパンを咥えたまま、くんくんと空気を嗅ぎ始めたのだ。

丸い瞳がマリアを見上げ、首を傾げている。

ハンクも異変に気づき、眉を寄せた。


「ラット?」

リリーが心配そうに様子を伺う。

ラットはパンを名残惜しそうに飲み込むと、マリアのスカートの裾辺りに鼻を近づけて再び匂いを嗅いだ。


「…あら、ごめんなさいね」

マリアがはっとして身を引き、「少し薬の匂いがきつかったかしら」と申し訳なさげに微笑んだ。


「薬…ですか?」

リリーが首をかしげる。

マリアは籠を抱え直しながら頷いた。


「ええ、流行り病の対策に薬をいつも身につけているんです。この街は雨が多いでしょう?体を冷やさぬようにと屋敷の医師から処方されまして」

確かに、マリアの立つ場所にはかすかに薬草のような匂いが漂っていた。

ハンクはラットの頭を軽く撫でた


「なるほどな。ラットが驚かせてしまってすまない。コイツは薬草の臭いに敏感でね。きっといつも森で採取する薬草の臭いが気になったのだろう」

ハンクの言葉に、マリアはかぶりを振った。


「いいえ、こちらこそびっくりさせてしまったわ。ごめんなさいね、キミ、優秀なのね」

マリアはラットへ優しく声をかける。

ラットは小さく鳴いて首を振るようなしぐさを見せ、一同は思わず笑みを交わした。  


ぽつりぽつりと、空から新たな雨粒が落ち始めるとマリアはフードに手を当て、「そろそろ行かないと」と呟いた。

その声にリリーが「あ…」と残念そうに声を上げる。


「もうお帰りですか?」

尋ねるリリーに、マリアは小さく微笑んだ。


「ええ、差し入れを持っていきたくって。この後は……少し自分の時間を取っているんです」

言葉を濁しつつ、彼女は視線を落とす。

その横顔を見て、リリーは口元に手を当てた。


「差し入れってことは、お屋敷に戻るんじゃないんですよね。何処へ行かれるんですか?」

「私、趣味で演劇をやっているんです。稽古場へこれから向かうんです」

「――演劇!?」

リリーの瞳がわずかに驚きに見開かれる。


「週に一度、お屋敷のお仕事が休みの日に、小さな劇の稽古に参加していて……。まあ、素人の遊びみたいなものですけれど」

マリアは少し恥ずかしそうに笑うと、リリーは目を輝かせて身を乗り出した。


「素敵です!どんな、お芝居なんですか?」

マリアが戸惑いながら口を開きかけた時、ハンクがやや咳払いをした。


「リリー、急に詰めすぎるな」

娘の興奮ぶりに苦笑しつつ諫める。

だがマリアは「ふふ、大丈夫です」とリリーに向き直った。


「今度、母の仇を討つ王女の復讐悲劇をお芝居にして上演する予定で……。今日はそのお稽古なの。仲間内だけの小さな集まりなのですけど」

するとリリーは羨望の眼差しを向けた。


「お稽古、ぜひ見てみたいです…!」

思わず漏らした彼女の呟きに、リリーは、はっとして口を手で覆う。


「あ…すみません、急に。でも……」

表情を曇らせたリリーは、その瞳に一瞬遠い憧れを宿らせた。


「私、お芝居って見たことがなくて……。森の外の世界のお話に憧れがあって……」

ハンクは娘の横顔を見つめ、小さく息をついた。

リリーが普段胸に抱えている閉塞感を、垣間見た気がしたからだ。  


マリアは少し考え込む素振りを見せたが、やがて意を決したように微笑んだ。

「もしご迷惑でなければ……。いらっしゃいますか? 今から皆で集まるところなんです。この近くの倉庫を借りて稽古をしているんですけれど」


誘うようなその言葉に、リリーの顔がぱっと明るくなった。


「いいんですか?」

しかしすぐにハンクの様子を伺って表情を引き締める。


「お父さん…」


ハンクは腕を組んだまま、しばし黙り込んだ。

捜査が行き詰まり気味とはいえ、事件が解決していない中で寄り道をするのは気が引ける。

だが、リリーの心からの願いにも見える瞳に押され、ハンクは観念したように溜息をついた。


「……短い時間だけだぞ、リリー」

そう告げると、リリーは花が咲くように笑った。


「ありがとう、お父さん!」

横でラットも尻尾を勢いよく振っている。


それを見たハンクは、苦笑交じりに肩をすくめた。

マリアは安堵したように微笑み、「では、ご一緒しましょうか」と先導する。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


もし少しでも内容が面白かった、続きが気になると感じていただけましたら、ブックマークや、画面下部の『☆☆☆☆☆』を『★★★★★』に変えていただければと思います。


ブックマークや星の評価は本当に励みになります!


どんな小さな応援も感謝します、頂いた分だけ作品で返せるように引き続き努力していきます。


これからもよろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ