警察署にて
警察署の執務室には、窓越しにしとしとと降り続く雨音が静かに響いていた。
主任刑事ジョナサンの机上には書類の山が築かれ、その横でハンクが腕組みをして立っている。
壁際の長椅子には娘のリリーが小さく座り、満月狼のラットが寄り添っていた。
「使用人たちから得られた証言をまとめよう。屋敷を徘徊する足音、消えた鹿肉。そして低く唸る獣声――」
ハンクが低い声で言う。
ジョナサンは疲れた表情で頷いた。
「ああ。だが決定打には欠けるな。霧の獣はいったいどこへ消えたんだ? 領主からは早急な解決を急かされているが、この調子では頭が痛い…」
彼はこめかみを押さえ、苛立ちをにじませた。
事件の捜査会議は、小さな区切りを迎えていた。
ジェラルド・レインズウィック殺害の現場に残された手がかりを整理すべく、ハンクたちは警察署で検討会を開いていたのだ。
しかし、屋敷の使用人への聞き込みで得られたのは、いずれも断片的な情報ばかり。
ハンクは顎に手をやり、昨夜の出来事を整理する。
「それと……。あの商人の話だが」
声にわずかな棘を込め、ハンクは続けた。
「ヴィクター・ソレイユ。ジェラルドと商談に来ていた男だ。やけに落ち着いていたのが引っかかる」
部屋の隅で話を聞いていたリリーが顔を上げる。
「商人なら商談がだめになれば落胆するはずですよね。それが、殺人の知らせにも取り乱す様子がありませんでしたね…」
ハンクは静かに頷いた。
そしても椅子に深くもたれ、「ヴィクターの言葉が気にかかる」と声を潜めた。
「森で仲間が獣に襲われただの、怪物の餌食になっただの……。あれは脅しか、狂言か」
ジョナサンは音を立ててペンを置くと、書類に視線を落とした。
「ただ一つ言えることは。森ではぐれた商売仲間は既に獣の餌になっているだろうということだ。もしかしたらヴィクターは帰らぬ仲間を待っているのか?」
「それなら好都合だ証拠は多いに限る。ここだけの話、上からの圧力がな…。従弟が殺されたとあって、領主も躍起になっている」
ジョナサンは忌々しげに吐き捨てる。
「真相を掴むまで、気が休まらんよ」
ジョナサンのその言葉を聞いてハンクはわずかに眉をひそめ、窓の外に目をやった。
低い雲が空を覆い、レインズベールの街並みに灰色の帳が垂れ込めている。
「俺も、すぐには帰れそうにないか」
苦笑しつつ呟いたその声に、長椅子のリリーが顔を上げた。
彼女は部屋の奥で控えめに座っていたが、父の口調から緊張が滲むのを感じ取ったのだろう。
リリーは一旦視線を落とし、隣のラットの頭をそっと撫でた。
「…お父さん」
蚊の鳴くような声で呼びかける。
「私、何か手伝えることあるかな」
その問いにハンクは一度目を瞬かせ、すぐにやんわりと首を振った。
「お前の気持ちだけで十分だよ、リリー。無理に捜査に首を突っ込むことはない」
そう諭しながら、ハンクは娘の幼い横顔に目を留める。
リリーは困ったように唇を結んだ。
彼女の脳裏には未だ霧がかった母の死の記憶があり、事件の真相を知りたいという思いを抱えていることを、ハンクは察していた。
獣の正体を気にしているのも、『誘い名の主』という言葉に過敏に反応するのもその死だろう。
それでも巻き込みたくない一心で、ハンクは穏やかな笑みを浮かべて見せた。
「心配はいらないさ。ラットの面倒を見ていてくれれば、それでいい」
ラットはリリーの足元で小さく鳴き、尖った耳をぴくりと動かした。
まるで自分も役に立てると伝えるように、ハンクたちの会話を聞いている。
ハンクはその様子に口元を綻ばせると、ジョナサンへと向き直った。
「捜査の方針は改めて共有するとして……。一旦ここまでにしよう。俺たちも情報を整理したい」
ジョナサンは深いため息を吐き、「ああ、そうだな。ひとまず休息を取ってくれ。外で飯でも食べて来い」と頷いた。
執務室を出て廊下を進むと、じめじめと湿った空気がまとわりついてきた。
外へ出れば相変わらず冷たい霧雨が街路を煙らせている。
「リリー、疲れてないか?」
ハンクが気遣わしげに娘に尋ねると、リリーは小さく首を横に振った。
「ううん、大丈夫。お父さんこそ…」
ハンクは「平気だ」と笑ってみせ、ラットの頭を軽く撫でた。
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