事情聴取③
「あっ、ラット!」
不意の出来事にリリーが慌てて追いかける。
ハンクも「待て、リリー!」と制止の声を上げたが、娘の背中はすでに廊下の角を曲がろうとしていた。
ジョナサンは一瞬目を丸くしたが、すぐにハンクに向き直り「どうする?」と問う。
ハンクは苦い笑みを浮かべ、「放っておけないさ。行こう」と短く答えた。
リリーはラットの姿を見失うまいと必死だった。
豪奢な絨毯敷きの廊下を駆け抜け、曲がり角をいくつも曲がる。
幸い屋敷の構造は複雑ではなく、ラットのかすかな足音と匂いを頼りに進んだ。
その先に、小さな勝手口へ続く廊下があり、朝の焼きたてパンの香ばしい匂いが漂ってきた。
ラットのやつ、お腹が減ってパンの匂いにつられたんだわ……。
リリーは半ばあきれ、半ば安堵しながら廊下の先を見やった。
その突き当たりに差し掛かったところで、リリーは立ち止まった。
ラットが廊下の真ん中で立ち尽くし、じっと前方を見据えている。
視線の先には、一人の女性がいた。
黒いメイド服に身を包み、清楚な印象を与える若い女性だ。
肩ほどまでの艶やかな黒髪に、整った顔立ち。
両手には編み籠を抱えており、そこからは先程感じたパンの香りが漂っている。
「あ……」
リリーと女性の目が合った。
女性は意外そうに瞳を瞬かせたが、すぐに柔らかな微笑を浮かべた。
「まあ、この子……パンの匂いにつられてきたのね?」
涼やかな声が廊下に響く。
優しい物腰に、リリーの緊張も和らいだ。
「す、すみません!」
リリーは慌てて頭を下げた。
「ラットが勝手に走ってしまって……お腹が空いてるみたいで……」
申し訳なさそうに謝るリリーを、女性は微笑んだまま静かに見つめている。
「いいのよ」
女性は籠の中からパンを一つ取り出すと、「ほら、召し上がれ」とラットに差し出した。
ラットは一瞬リリーの方を見上げ、許しを得るとパッと顔を輝かせてマリアのもとへ歩み寄る。
そして差し出されたパンを恐る恐る口にくわえ、旨そうに頬張り始めた。
「ふふ、ずいぶん礼儀正しいのね。まるで人間の子供みたい」
マリアが驚いたように笑うと、ラットは尻尾をぱたぱたと振って、まるで言葉がわかるかのように頭を下げた。
その愛らしい仕草に、マリアの頬も緩む。
「おかわりもあるわよ」
使用人の女性がさらにパン切れを差し出そうとしたところで、廊下の奥から荒い足音が近づいてきた。
「おーい、リリー、何処まで行くんだ!」
息を切らして駆けつけたハンクが、廊下に二人と一匹の姿を認め、怪訝そうに立ち止まる。
続いてジョナサンも追いつき、何事かと眉をひそめた。
「すみません、お父さん……ラットが急に飛び出しちゃって」
「まったく、こんな屋敷で迷子になられたらかなわないぜ」
そう言いながらも、リリーとラットが粗相をしていないことを確かめ、胸を撫で下ろす。
「こちらは……?」
ハンクはラットにパンを与えている若い女性に目を向けた。
使用人の女性が静かに頭を下げる。
「申し訳ありません、驚かせてしまって。私はこの屋敷で働いておりますメイドのマリアです、マリア・クラインと申します」
丁寧に自己紹介するその声色は控えめだが澄んでいる。
ハンクは軽く会釈を返した。
「私はハンク・ウィルソン。捜査の協力で屋敷に伺っている猟師です。こちらは娘のリリー」
リリーも慌てて「あ、リリー・ウィルソンです。ラット共々、ご迷惑をおかけして……」と頭を下げた。
マリアは小さく首を振り、「いいえ、お気になさらず」と微笑んだ。
その表情は穏やかだが、どこか影が差している。
ハンクはふと、彼女の瞳が涙を堪えるように揺れているのに気づいた。
主君を失った悲しみからか、それとも――。ハンクの胸に一抹の引っかかりが生まれる。
「マリアさん、パンをありがとうございました」
リリーが礼を述べると、マリアは「ふふ」と優しく笑った。
「うちの厨房で焼いたものですから、焼き立てのうちに食べてもらえて良かったわ。この子、本当に可愛らしいわね……ラット、って言うの?」
リリーは頷き、「はい、ラットです。森で私が拾って……今は家族同然なんです」と誇らしげに答えた。
マリアは「まあ」と感心したように目を丸くし、それからラットの頭をそっと撫でた。
「優しいのね、リリーさん……あなたに拾われたラットは幸せ者だわ」
その仕草と声には温かさが滲んでいる。
リリーは頬を紅潮させ、くすぐったそうに笑った。
ハンクも傍らで微笑ましく二人を見守る。
だが、ジョナサンは場の和やかさに構うことなく一歩踏み出した。
「失礼だが、君にもいくつか質問をさせてもらおう」
ジョナサンは捜査官の厳しい顔に戻っている。
マリアはハッとして表情を引き締めた。
「……はい。私で分かることであれば、何でも」
声には動揺は感じられないものの、その指先が籠の縁をわずかに強く握ったのを、ハンクは見逃さなかった。
「事件の夜、君はどこで何をしていた?」
「旦那様の夜の片付けを終え、夜半には自室に戻っておりました。疲れていたのでベッドに横になってすぐ寝入ってしまい……物音には気づかず、翌朝同僚の悲鳴で目が覚めたしだいです」
ジョナサンの問いに、マリアは用意していたかのような簡潔な答えを落ち着いた口調で答えた。
そのマリアの答えを聞いて、ジョナサンは続けて問いかける。
「得体のしれない怪物、又は、不審な人物を見かけたことは? ジェラルド・レインズウィックが何者かと争っている声を聞いたりは?」
「いいえ、何も。私は何も存じません」
マリアは首を横に振った。
毅然とした態度で言い切る様は潔くさえある。
ハンクはその様子を横で観察しながら、胸の内に奇妙な違和感を覚えていた。
目の前の若い女性――マリア・クラインは、主人を惨殺されたというのに、取り乱す様子もなく静かに質問に答えている。
先ほど大広間で聞き取りをしていた時の執事も、使用人達も皆一様にその表情は動揺で歪んでいたのに。
このマリア・クラインと言う女性、あまりにも冷静すぎる。
そして、その瞳の奥に潜む感情……。
悲嘆とも怯えとも違う、冷え冷えと沈んだ激情のようなものが垣間見えた気がした。
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