雨の中の警官
森の風が妙に生ぬるく感じられたのは、夕刻から続く長い雨のせいかもしれない。
なだれ落ちるような小雨が、夜になっても止まずに地面を叩いている。
猟師のハンクは、そんな雨の夜道を、ひとり歩いていた。もっとも、正確には「ひとり」ではない。すぐ傍には、赤いマントを羽織った娘のリリー、そして彼女の膝下をちょこちょことついて回る子狼――ラットが寄り添っている。
ハンクは、右手に握る古びたオイルランタンを少しだけ前方に掲げて、息をつく。手袋にしみ込んだ獣油の匂いが鼻を刺したが、それよりも気になるのは、すぐ近くにあるレインズベールの街の湿った空気だ。
街道を踏みしめる足元に、雨のしずくが波紋を描く。まるでいつまでも消えない傷痕のように広がっては消え、広がっては消えていく。ハンクは長年狩りを生業としているが、これほど夜に出歩くのは久しぶりだった。
今回の用件は、どうやら猟師の血の匂いがする話ではない。それでも、森で鍛えた嗅覚が警告を鳴らしている。
「……気が進まないな」
思わず誰にも聞こえないほどの低い声でつぶやく。
「お父さん……」
ハンクのすぐ横でリリーが心配そうに顔を向けている。その瞳には、少し不安げな色が浮かんでいた。
「すまん、リリー。だが……どうしても行かねばならんらしい。警察の要請は断れないんだ」
ハンクはそう言いながら、雨でぬれたリリーの前髪をそっとかき上げる。
そこにはリリーの忠犬となった子狼・ラットが丸くなって、彼女の足元を温めるように寄り添っていた。
リリーが森で偶然助け、かれこれ半年ほど一緒に暮らしている。この夜道ですら、リリーとラットが一緒なら、少しだけ心が安らぐ。
――しかし、今夜の呼び出しは気味が悪い。
レインズベールの警察組織で主任刑事を務めるジョナサン・フィッチャーが、「おまえが来なければ捜査に支障が出る」と強引に指名してきた。
理由は単純。森に潜む怪異、あるいは何かの猛獣の痕跡がある殺人事件が起きたのだという。そして、その被害者が町一番の豪商――ジェラルド・レインズウィック。
レインズウィック家と聞いて、ハンクの胸には、ある心当たりが重くのしかかる。その一族――「雨の一族」とも呼ばれる彼らは、長年にわたりレインズベールを支配してきた。街の政治や商業を牛耳り、表向きは慈善活動や街の繁栄に尽力する高貴な顔を見せる一方で、その裏では冷酷な権力闘争と陰謀の歴史が囁かれてきた。
そんな大物が“何者か”に殺された。
しかも、獣のような痕跡を残して。
ハンクは思わず、半年前の出来事を思い返す。
それは森の奥で起きた“誘い名の主”との血塗られた対峙。あれが、また絡んでくるのだろうか……。
「お父さん、着いたみたい」
リリーが声を上げた先を見やると、大きな鋳鉄製の門扉が闇夜の中でぼんやりと浮かんでいた。
そこには、すでにコートをびっしょりに濡らした主任刑事のジョナサンが待っている。
「ああ、やっと来たか、ハンク。……まったく、雨の中どれだけ待たせる気だ。俺のコートが絞れるほどびしょ濡れになってるんだぞ」
ジョナサンは低い声でそう呟くと、ランタンの明かりがわずかに照らすその顔に、重圧と疲労、そして苛立ちが同居しているのが見えた。
「リリーまで連れてくるとはどういうつもりだ。おまえ一人で来いといったはずだが」
「言ったところで、留守番してくれる娘じゃない。まあ、大人しくしててもらうさ」
「……ふん。少なくともこのその犬っころは、ここで待たせろ。室内に入れるわけにはいかん」
ジョナサンはラットに向けて、「おとなしく待つように」と視線を送る。
ラットは低く鼻を鳴らしたが、リリーが抱きしめるように宥めると、何とか吠えずにその場でじっとしてくれそうだ。
「待ってください」
リリーがむっとした表情でジョナサンを睨み返す。
「ラットはただの犬じゃありません。すごく鼻が利くんです。捜査の役に立つかもしれないじゃないですか」
ジョナサンが目を細めたまま、少し口を開きかけたが、ハンクが口を挟む。
「リリーの言う通りだ。こいつは山の獣の痕跡を嗅ぎ分ける。少なくとも、俺が来た意味があるってんなら、こいつも連れていく意味はあるはずだ」
「……ふん、勝手にしろ」
ジョナサンは面倒そうに顔をしかめたが、納得したように肩をすくめた。
「で、本当にジェラルド・レインズウィックが……?」
ハンクが改めて尋ねると、ジョナサンは黙ってうなずく。
「この雨の夜にな。屋敷で見るがいい、あの無惨な姿を……。獣がやったとしか思えん。はたまた、人間離れした何者かの仕業か……」
ジョナサンの声が裏返る。
強面で知られる刑事のはずだが、その瞳には微かな震えが見えた。
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