プロローグ②
雨は降り続き、診療所の軒先では細かな滴が糸のように垂れていた。
扉を押し開けると、上部に吊るされた真鍮の鐘が乾いた音を一つだけ鳴らし、内から漂う薬草と煮出した木の根の温かな香りが、外気で冷えた体にふんわりとまとわりつく。
その香りに包まれるようにして、奥の廊下から軽やかな足音が跳ねるように近づいてきた。
「おかえり!」
「リリー、待たせたな」
リリーが笑顔で立っていた。
淡い栗色の髪は肩で切りそろえられ、後ろで丁寧に編み込まれている。
雨に濡れないよう奥から駆けつけたのか、エプロンの裾を軽く摘み、手には乾いたタオルが二枚抱えられていた。
そんなリリーに見せつけるように、ハンクは衣服の雫を払って、ラットが仕留めたカモを掲げた。
「リリー、今日の晩御飯の材料だ」
誇らしげにハンクが抱えるカモをラットは静かに見上げる。
「わぁ、カモだ……ラットが捕まえたのね。ほら、首筋に噛み跡。上手!」
「ワンッ!」
喉が弾み、ラットの尾が小さく揺れた。
ハンクとリリーは、疫病が流行し始めた頃からゾフの診療所に身を寄せていた。
診療所の二階には、質素な寝台が二つ置かれた部屋があり、父娘はそこを寝床としている。
ゾフはレインズベールでも数少ない療治師の一人であり、山間で薬草を採るハンクと協力関係を築くなかで、自然と生活を共にするようになった。
リリーは父の狩りの間、診療所で留守番をしながら、いつしか薬瓶の整理や煎じ薬の準備を手伝うようになっていた。
名目こそ居候だが、日々の食卓を共にし、雨音を聞きながら語らう夜を重ねるうちに、三人の関係は血を分けぬ家族のように深まっていった。
「今夜はシチューにしよう」
「うん、羽根むき私がやる。セージとタイム、少しもらうね」
「右の棚、二段目だ。塩は控えめにたのむよ」
ゾフは古い帳面から目を上げずに答えた。麻のシャツに毛糸のベスト、指先だけが忙しく動く。
リリーがカモを抱え直し、台所へ向きかけた、そのときだった。
玄関の扉が二度、三度と硬く叩かれる。
雨音に混じらない、遠慮のないノックだ。
「患者かもしれんな、仕方あるまい。わしが見てくるか」
ゾフは秤の分銅を静かに戻し、帳面に栞を挟んでペン先のインクを拭った。
作業を中断し、椅子を押しやって立ち上がる。
「こんな時間に患者さんなんて」
「痛みは、日の終わりを選ばないさ」
ハンクが短く返した。
掛け金が外れ、冷たい外気が細く流れ込む。
開いた隙間から、濡れた布と革、油と金属、泥の混じる匂いが入り、ラットの鼻先をくすぐる。
嗅ぎ慣れない臭にラットの前足が自然と位置を変ていた。
ゾフが戻ってくると、肩越しに長身の影が揺れる。
「どうやら、お主あての客人だ、ハンク。警官がお主に話があるようだ」
紺の衣服をまとった男が敷居をまたぐ。
庇から滴が落ち、真鍮のボタンが灯りを弾いた。
革ベルトには薄い帳簿と鉛筆束、磨かれた留め具。
床には点々と濡れ跡が並んでいた。
ラットは息を詰め、目だけで男を追った。
「俺に、なんの用だ」
「お父さん……なにか、しちゃったの?」
リリーの声がわずかに震えた。
男は無造作に濡れた帽子を脱ぎ、胸元で静かに押さえるようにして短く会釈した。
軍人のように無駄のない動作の裏に、長年の訓練と規律が見える。
四十代半ば、広い肩幅と厚い胸板を持つ屈強な体格で、制服の上からでも締まった筋肉が窺えた。
頬には浅い傷跡が一本走り、雨風に晒されたような肌は浅黒い。
目の下には薄い隈が刻まれており、疲労を帯びた表情の中にも警戒と職務の緊張感が滲んでいる。
そして、吐き出される声音には一切の迷いがなかった。
「レインズベール主任刑事、ジョナサン・フィッチャーだ。ハンク・ウィルソンで間違いないな」
男はゆっくりと胸元の内ポケットに手を差し入れ、黒革の徽章ケースと封筒を取り出すと、診療所の卓上にそっと置いた。濡れた制服から落ちた水滴が木目に吸われ、徽章の鈍い金が灯りを受けて静かにきらめく。
ハンクは無意識にリリーの前に半歩出た。
リリーの手元では、タオルがきゅっと握られ、ゾフは鼻眼鏡を指先で持ち上げる。
「任意の要請だが、急を要する。捜査への協力をお願いしたいのだ」
そのひと声で、室内の温度が一段下がったような錯覚が生まれ、ラットの耳がわずかに伏せられた。
「丘の上のレインズウィック邸を知っているな」
ジョナサンは顎で窓の向こうを示す。
「今朝早く、当主ジェラルド・レインズウィックが寝室で遺体として発見された。あまりにも無残な姿だった」
その声に重なるように、薬瓶の硝子がわずかに震えた。
ラットは鼻面を上げ、空気の中に混ざる異質な匂いを辿った。
鉄の匂い――それは新しい血の証。
そして靴底に絡んだ湿った赤土と、繊維が擦れるような残り香。
その中に、さらに異様な臭気があった。
それは、今朝カモの首筋から立ちのぼった鮮血の香りを遥かに上回る、獣の本能すら鈍らせるような、おびただしい血の臭い。
ラットは鼻先を前足で覆い、短く息を詰めた。
生肉の香りにも似た血の気配だが、それよりずっと深く、重く、どこか冷たい。
警官の全身から発せられるその臭気は、まるで複数の死をひとところに凝縮させたような異様さだった。
ラットの喉がごくりと鳴と、咄嗟に身を引きながら、警戒のまなざしをその男に向ける。
そして、その反応を感じ取ったかのように、ハンクが不意に低く息を吐いた。
「殺人事件の捜査に協力しろってのか? 俺は猟師だぞ……」
ハンクが低く息を押し殺すように言い返した。
「ああ、だからだ。お前は“誘い名の主”を見て、生きて戻った。その名を呼び返して森へ引きずり込む怪物を知る猟師は、この町に二人といない」
「……なんだって?」
「遺体の状況が常軌を逸している。あれはどう見ても人の手によるものじゃない。獣か、あるいはそれ以上の何か……。だからこそ、獣に精通した猟師のお前に頼るしかなかったんだ」
そう言ってジョナサンは徽章ケースの蓋を指先で一度、軽く叩いた。
窓辺で、大粒の雨がひとつ弾ける音がした。
ラットが床を一歩踏みしめ、姿勢を低くする。
新しい匂いは、夜の入口から一歩も動かず、ただそこにあり続けていた。
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