プロローグ①
レインズベールでは、雨が一日の輪郭を曖昧にする。
朝も昼も夜も、細い針のような雨脚が空から絶え間なく落ち続け、葉は常に濡れ、土は黒く息を潜める。
音は柔らかく吸い込まれ、遠くの景色は薄膜の向こうに霞む。
だが、ひと月に一度だけ、空がひらける夜がある。
満ちた月の夜。
雲が静かに裂け、銀の月が顔を出す。
名を与えられてから半年。
ラットはその間に、見違えるほど成長していた。
肩幅は広がり、胸は厚くなり、四肢の腱は張りを増した。
跳ねれば地面がよく返し、走れば獣らしいしなりと力を感じる。
暴れる力を抑える術も、時間をかけて身につけた。
ハンクは多くを語らないが、指の鳴らし方、足音の調子、手のひらの重みだけで〈止まれ〉〈伏せろ〉〈右から回れ〉を伝えてくる。
雨の夜も、凍える朝も、その合図は決して揺らがない。
満月の夜、ラットは人になる。
月の光を浴びると、骨の噛み合わせがほどけ、指が開き、喉に言葉が戻る。
この姿を、ハンクやその娘リリーに見せるわけにはいかなかった。
厳格なハンクが何をしでかすかわからず、リリーに不安を抱かせたくもない。
だからその夜は、ゾフの診療所の窓を静かに開け、物音を立てずに外へ出る。
石畳の冷たさを足裏で確かめながら、人の歩幅で町の縁を巡り、月が沈むまでのあいだ、言葉で世界を確かめ直す。
半年で、その機会は六度あった。
ラットはよく手のひらを眺めた。
細い骨、薄い皮膚、思いのほか簡単に掴めてしまうものの軽さ。
雨の匂いは、獣のときと変わりない。
獣の体毛の流れをなぞるように衣服として仕立てられた外套が、濡れるごとに体温を奪う。
そのたびにラットは思う。
次の満月にも、俺はここにいるのだろうか、と。
その日も、森は変わらず雨だった。
ハンクと並び、濡れた下草をかき分けながら静かに歩く。
ハンクが指を一度鳴らすと、ラットは立ち止まる。
二度鳴れば身を伏せ、三度鳴れば右へ回り込む。
風は北から南へ。
匂いが前へ届きにくい。
悪くない。
梢の密度が薄れ、浅い窪地に水が溜まっていた。
針の雨が水面を無数の波紋に変え、縁の葦が細かく揺れる。
水辺には灰色の影が丸く連なっていた。
雨をやり過ごすように羽根をふくらませた野鴨の群れ。
脂と羽毛の混ざった匂いが、雨の幕の裏で細く流れている。
ハンクが泥に膝をつき、手の甲でラットの肩を二度、三度と押す。
右から、さらに低く。
ラットは耳を伏せてそれに応え、葦を縫って回り込む。
泥の冷たさが血の熱を鎮め、脚の運びを整えてくれる。
半周したあたりで足を止める。
風向きは良好。
ここなら匂いは届かない。
葦の隙間から覗くと、群れの端に若いカモが一羽。
油が雨粒をはじき、小さな珠となって滑り落ちていく。
ラットはわずかに顎を引き、鼓動を地の底に沈めた。
焦るな、走るな、匂いを撒くな、目より流れを追え。
半年のあいだに体へ刻まれた掟。
対岸でハンクの気配が動く。
乾いた枝が一本、控えめに折れる。
不自然な音。
群れの首が一斉に跳ね上がり、若い一羽が一拍遅れて顔を上げた。
浅い水に足を取られ、体勢がわずかに崩れる。
その一瞬を、ラットは見逃さなかった。
地を蹴った爆ぜるような動きで、だが音は小さく、雨の幕を裂く影となって走る。
葦が開き、水が弾け、空気が震える。
若鳥は羽根を広げるのが遅い。
跳躍の頂点で首筋を狙い、歯を合わせる直前で呼吸を止める。
奥歯が触れる手前で噛み、前肢で抱きかかえるようにして着地の回転を殺す。
鉄の味が舌に広がり、羽毛が頬に貼りつく。
細い骨が、指で摘む枝のようにたわみ、やがて動かなくなった。
岸へ戻るあいだも、獲物は決して地面につけない。
泥が足首にまとわりつき、外套の裾が雨で重くなる。
そのラットの姿を見て、対岸でハンクが立ち上がった。
「ラット、お手柄だ。これで今晩もシチューが食える。カモはリリーに任せるとしよう」
「ワンッ!!」
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