五話 ある夜更けに
カツン……カツン……。
王宮広間側の広く、長い回廊に足音がこだまする。
春の夜風は未だに少し寒く、夕方や夜などは未だに羽織るものが必要と感じる季節感だ。
この老人も例にもれず、長い灰色のローブを身にまとっていた。
それ以外にも、老人のその指には様々な鉱石をはめた指輪や、首には貴金属のネックレス、頭には簡単な装飾が施された簡素な冠がたずさえされていた。
そして、その深くかぶったローブの中からは齢九十の老人とは思えないほどのするどい眼差しを光らせ、ある一点をじっと見つめている……。
この足音の主はセルゲイル・ラーセン。王宮付き特級魔道士であり、諸外国からはまたの名を『炎の賢者』と呼ばれている。
彼は貴族などの高貴な生まれではなく、どこぞのスラム街に生を受けた一人の赤子であった。
街はすさみきって汚れ、いたる所では麻薬、酒などで酔いつぶれ、どの住人も自分の人生を諦めきってるようなそんな瞳をしている街であった。
そのような所で生まれ育ったのであれば、将来は盗賊や用心棒。よくなれて街の隅に店を構える程度の人生を送るのが関の山だったろう。
しかし、彼は二つの幸運に恵まれた。
一つは魔の才能。
本来魔道士とは才能はあったとしても師匠や先生のもとで学ばなければなれないと言うのがこの世界での常識なのだが、彼は違う。
彼は自分のその素質に気づき自らで問い続け、磨き、実践し十歳の頃には二流魔道士と同程度の実力を得ることができたのだ。
二つは、彼の父親。
彼の父親は用心棒として、日々の糧を稼いでいたのだが自分の子に同じ道を歩んでほしくないという強いは常に思いがあったという。
そんなある時、彼の父親は彼の魔道士になり得る素質を間近でみることとなる。それは彼が二歳の頃、『中等魔法 炎の円舞』を部屋の中で発動し遊んでいたというのだ。
この世界での魔法の大まかな区分は、習得が簡単な方から低等魔法、中等魔法、高等魔法、超等魔法、特級魔法となっている。
低等魔法はなりたての学生が最初に習う魔法で、特級は伝説級の魔道士、あるいはは宝具を用いてのみ発動できる魔法で、世界を創造する力を持つといわれるものだ。
つまりは、二歳の幼子が魔法学院の生徒が習う魔法を自力で探し、行使したと言うわけだ。
彼の父親には、その光景は彼がこのスラム街を出ていける力が十分すぎるほどあるように見えたことだろう。
それから彼の父親は、彼が魔の道に迷わずに進んでいけるよう、汚れた仕事や付き合いを一切やめた。
稼ぎは多少減るが、彼の将来への道に自分の暗い部分があったのでは邪魔をするからと思い隣町の清掃員になった。
その仕事は、彼の父親にとって決して魅力ややりがいを感じるようなものではなかったが、子供の将来のためにと精力的に働いた。
それからは様々なよい縁や幸運なことが彼と彼の父親に重なり七十年後の今、彼は大陸を代表するほどの賢者と成りうることができたのである。
※※※
話は戻り、今は人が皆寝静まった夜更け。本来ならばセルゲイル自身も床に付いてる頃であろう。
しかし、今夜は違う。
セルゲイルは回廊を歩き終え、王宮内の扉前についた。
扉前の警備の兵も彼が来ることがわかっていたからか、何も尋ねることなく、また彼も当然かのように開かれた扉をくぐった。
そして一直線に、セルゲイルは『ある』場所へと向かう。
王宮本殿の扉からしばらく歩いた後、セルゲイルは『ある』場所、とある部屋の一室の前にたたずんだ。
セルゲイルは迷いなくドアを――静か――に開け、その部屋の窓際で大きなベッドに横たわる、部屋の主たる青年の側にひっそりと近寄った。
金糸のようななめらかな髪に人形かのような整った顔立ちの彼の顔をひとしきり、セルゲイルは惜しむかのように眺めた。
「王子よ……許してくだされ。恨むならこの老いぼれ一人に、どうか……」
セルゲイルは腹から引き絞るかのようなか細く、悔しいような声をつぶやいた。
――燻り、舞え。……炎の残煙。
そして、その引き絞ったかのような声で『低等魔法 炎の残煙』を発動すると、セルゲイルの口から静かに火種が吐き出された。
それが落ちると、火種からは煙が勢いよく吹き出しあっという間にあたり一面が灰色の景色と化した。
その光景を、セルゲイルは鋭い眼差しでじっと見つめた。
彼の灰色の瞳にこの光景がどう見えたか。誰も知るよしはできない。
そして少ししてから部屋から出たセルゲイルは『その』場所を後にした。
そして来た道であるもとの通路を明かり一つなく進み、その闇の中へとセルゲイル・ラーセンは消えた。